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「余計なお世話です」番外編〜綾門と加藤の往復書簡〜

 2018年秋から急な坂スタジオのHPにて、綾門優季さんによる連載「余計なお世話です」を掲載してきました。公演ごとの舞台批評だけではなく、舞台芸術全体の課題などを交えながら、たくさんの方からのご協力の元、連載を続けてまいりました。
 この数ヶ月、社会全体にとっても、舞台業界にとっても、厳しい状況が続いています。この状況の中で、今語られるべきことをどのような形で掲載するのが良いか話し合い、綾門さんと加藤(急な坂スタジオディレクター)の手紙でのやりとりを掲載することにしました。

 二人のお手紙を、こっそり一緒にのぞいてみましょう。

※今回は2つのお手紙を同時に更新しました。
・『往復書簡 5通目(綾門→加藤)』
・『往復書簡 5通目(加藤→綾門)』

「余計なお世話です」番外編〜綾門と加藤の往復書簡〜

★往復書簡 5通目(綾門→加藤)

加藤さま

お世話になっております、綾門です。

≫何よりも怖いのは、稽古場や稽古期間に関しての情報が「十分な感染予防措置を講ずるようにしてください。」としか記載されていないことです。創作は劇場に入ってからスタートするのではありません。共有する時間は、稽古期間の方が長い人も多いでしょう。新しい創作環境のあり方を考える時期なのかもしれません。

本当にそうですね。公演の内容によりますが、本番より稽古場のほうが感染リスクが高いこともザラにあると思います。これだけ舞台芸術のあり方について話し合ってきたにも関わらず、適切な稽古の仕方についてはあまり充分な議論が行わないまま、始まろうとしているように思えます(これは自戒も込めて)。どのように稽古を進めていくのか、今後の現場の声を慎重に拾い上げていきたいところです。また最近は、万が一、公演でコロナの感染が起きてしまったとわかったときに、適切な対応を行うためのガイドラインについても不徹底であると感じるようになりました。

さて、急な坂の新しい使い方でしたね。以前、この連載で頂いた加藤さまのアドバイスを受け、試行錯誤の結果として、Twitterについては、TLではなく特定の方のつぶやきだけを読んで画面を閉じる見方に緩やかに移行しているのですが、岡田育氏の、先日のツイートが気になり、実際に哲学対話茶会に参加してみました(ツイートが長くぶら下がっていますが、最後までお読みください)。

▶︎岡田育Twitter

これまでなかなか存在してこなかった(うまく存在できなかった)トークの場のことをずっと考えています。
ポストパフォーマンストークにやたらと出演してきた私がいうのもなんですが、いま求められているのはそれではなく、あまり行われてこなかった、対話を前提とした集まりなのではないでしょうか。
そもそも、ポストパフォーマンストークのあとの「質疑応答」という時間ですが、どうしても一方的なものになってしまい、「話し合い」をその場で行うのは難しく(何だかやり取りしてると観客とトークゲストがもめてるみたいに端からはみえてしまうのです)、かといって私が一方的な自説を延々と唱えるのも恥ずかしく、歯がゆいものがありました。
まして、コロナのあとの舞台芸術の未来は率直に言って未だに誰もわからないわけで、誰か一人の意見は誰か一人の意見に過ぎません。必要なのは、様々な立場のひとが様々な立場のひとの「蒙をひらく」ことです。

≫最近よく感じているのですが、「未知の観客(まだ演劇を見たことがない人、興味がない人)」と「(大きくざっくり)演劇人」と「観客」の、それぞれが分断してしまっているような気がします。

これについては本当にそうだと思います。そして、一方が「わかってくれよ!」と迫るようなあり方では、とてもじゃないですが、分断は解消されてはいかないでしょう。
急な坂は劇団や劇場とはまた異なる独特のコミュニティがありますし、それを生かして、上記の3者がフラットに混じり合って対話するような場を、定期的に設けていくことはできないでしょうか。
言うは易く行うは難し、なのかもしれませんが、ポストパフォーマンストークに全く出ない3ヶ月という、私としては数年ぶりの貴重な時間の中で、そのような場の誕生を夢想していました。

さて、加藤さまへの今回の質問ですが、上記の提案とは一見、矛盾するような話です。

ご周知かと思いますが、今年のはじめ、私は非常に厄介なハラスメント(発端は暴行事件でハラスメントではないですが、ここからの話はそれのみについての話ではないのでこのように表記します)を巡る一連の騒動の中にいました。そこで必ずといっていいほど出てくる「〇〇を批判するそういうあなたは潔白なのか」という論旨のものには、違和感を覚えました。今も映画業界で、ハラスメントの告発があったばかりで、議論の真っ最中という状態ですが、ここでも加害者擁護の論法の中には、それに近い言葉も見受けられます。

私自身についても、今日に至るまでに、一方的な被害者の状態であり続け、加害者の側になったことは一度もない、とは確実に言い切れません。潔白なのかと問われれば、潔白ではありません(潔白だと言い切る人のことを私は疑います)。そしてそれは、長い人生の中で、多くの人が直面する問題なのではないかと思います。しかし、だからこそ、すべての言葉が私自身にも刺さる前提の中で、それでも状況を変えていく努力を続けなければならないのです。誰もが、なるべくなら、被害者にも、加害者にも、ならないほうが良いのは明らかなのですから。

私が加害者の側に立ったことを、自覚している過去についてお話しいたします。劇作家の友人(キャリアとしてはほぼ同じくらいの先輩です)に対して、それは起こりました。

電話で話している時に、前後の脈絡のあまりない形で、ある戯曲賞のもつ傾向について批判しました。世間話のつもりでした。

一度話を拒まれたにも関わらず、その後、更に批判を続けました(何故やめなかったのでしょうか)。友人が泣き出したところで、ようやく、私の発言が別の意味をもつことに気づきました。

その友人は過去に、その戯曲賞の候補者になったことがあったのです。

その候補者の作品が選ばれたことは、実力によるものではなく、その傾向によって選ばれたのだと私が思っていると突然伝えたことになりました。

今、思い返しても、馬鹿な発言でした。本当に申し訳なかったです。友人にも戯曲にも敬意のない発言で、信頼を損ねるものでしたし、配慮に欠けている、と言われても仕方のないことでした。その後、友人には距離を置かれましたが、謝罪を何とか受け取ってもらい、話し合いを重ねたうえで、話の出来る関係にまでは至りました。

このケースでは、謝罪を伝えること、話し合いを行うことが出来る関係に、たまたまありました。が、私はそれから、そうではないケースのことについて、考え込んでしまいました。関係性によって、話し合いの場をもつことが、容易ではないことがあります。起きた瞬間、加害者と被害者で、直接話をさせてはいけないケースもあります。

私は何事も、話せばわかるのだ、と昔は思っていました。今はそれが、稚拙な認識だったと捉えています。

では、話し合いの場で解決しない問題というのは、どのようにして、解決すればいいのでしょうか。

今年のはじめから、同じことを、ずっとぐるぐる考えている気もします。
ですが、まだ、よくわからないでいます。

6月22日 綾門優季

★往復書簡 5通目(加藤→綾門)

綾門さま

6月になって急に色々動き出したものの、練習施設である急な坂スタジオは「どんなに頑張っても三密避けられないよね?」ということで、しばらく休館が続きます。劇場が再開しても、どこで創作すればいいのでしょうね。卵が先かニワトリが先か…

お稽古場の活用、素敵なご意見ありがとうございます。私のアイディアは「ホールを釣り堀にする」とか「猫カフェを始める」とかで、スタッフから失笑を買いました。

実は今回、綾門さんのお手紙に頭を抱えてしまいました。
それはご友人との出来事が「果たして解決しているのか?」ということです。

電話口で泣き出すって、かなり心を抉られたのでしょう。
怒って電話を切ってしまっても良かったのに、そうしなかったということは、真面目で優しい方なんだと思います。
だからこそ、謝罪にも耳を傾けてくださったのでしょう。もし私がその方だったら、ブチ切れて着信拒否して悪態の限りを尽くすでしょう。「がおー!!」

お二人の関係は「話し合える関係性」ではなく、その方が「相手の声に耳を傾けることができる人だった」のでは無いでしょうか?
これは、綾門さんの質問の答えでもあります。そもそも何事も話し合いで解決なんてしないんです。
「誰かの気持ちや声に気づける人」が我慢したり、配慮したりして、世の中はうまく回っているのです。「空気を読む」ということです。そうして声の小さい人や、気持ちを飲み込むのが上手な人が、どんどん苦しくなってしまうのです。これは本当に良くないことです。

じゃあ、どうすればいいのか?私にも答えはわかりません。ただ、大切なことは「解決すること」よりも、
「解決に向けて様々なことを試してみること」じゃないでしょうか?
フェアな第三者に立ち会ってもらうとか、直接話すのではなくお手紙にするとか…

双方納得する「解決」ってなかなか無いと思います。お互いに分かり合えないのは当たり前だと、私は思っています。
だからこそ「私のことを分かって!」とか「どうして分かってくれないのか?」と嘆くのは、止めにしましょう。
誰もが、自分と同じ価値観や正義を持っている訳では無いです。

でも、この「分かり合えないこと」をスタートにして創作や創造活動があるんじゃないでしょうか?
今、劇場や稽古場に集えない私たちは、これまでよりもずっと丁寧に「観客」のことを考える必要があると感じています。

まずは「目の前にいない・分かり合えない他者」の気持ちを考えるところから、始めてみるのがいいんじゃないでしょうか。
答えにはなっていませんが…

私からの質問は、緊急事態宣言以降、「最初の観劇場所はどこに行きたいか?」です。
国内外問わず。お返事お待ちしております。

6月24日 加藤弓奈

追伸:先日、まつもと市民芸術館の串田さんの記事を読みました。本当にかっこいいな、と思ったのでぜひ。
▶︎エンタメ特化型情報メディア スパイス内『俳優・演出家の串田和美、野外公園での小さな、小さな一人芝居で始動』

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