綾門優季連載スタート!「余計なお世話です」

綾門優季さんによる連載「余計なお世話です」を始めます。アーティストへの支援のあり方は様々です。今、綾門さんと急な坂スタジオが一緒に出来ることは、今回の連載です。
たくさんの方のご協力をいただいて、この連載は成立しています。そして、それは個人のための協力・支援ではなく、批評やアーカイブといった重要性を改めて考えるための、舞台芸術業界全体にとっての支援につながると信じています。

余計なお世話かもしれませんが、ぜひ、ご一読ください。

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2014年に急な坂スタジオでも上演した『RE/PLAY Dance Edit』が、今月吉祥寺シアターにて上演されます。今回、“肉体・ダンス”をテーマに記事を執筆するにあたり、この公演のプロデューサーの岡崎松恵さんにお話を伺いました。
『RE/PLAY Dance Edit』について、急な坂スタジオ・ディレクターの加藤が「余計なお世話です」特別編としてご紹介させていただきます。綾門さんの連載と合わせて、ご一読ください!

「わからない」を受け入れる(急な坂スタジオ ディレクター 加藤弓奈)


『RE/PLAY Dance Edit』マニラ公演(撮影:Claudia Enriquez)

 2014年2月。めずらしいことに横浜にも、たくさんの雪が降った。その名の通り当館の前の急な坂は、真っ白な雪に覆われていた。ただでさえ大変な坂道が、雪のせいで本当にしんどい坂道になっていた。しかしながらその坂道を、多くの観客が「ある作品」を観るために登って来たのだ。期待を胸に足を運んだ観客達は、興奮の面持ちで真っ白な坂道を降りて帰っていった。その作品とは「RE/PLAY Dance Edit」だ。

 綾門さんの企画を進めていくなかで、「ダンスの見方がよくわからない」「これまでのダンスシーンのことをもっと知りたい」という言葉が出てきた。わからないことは聞いてみよう!という精神で、岡崎松恵さんにお時間をいただいた。私にとってはSTスポット時代に大変お世話になった大先輩であり、制作者としてのノウハウを叩き込んでくれた人のひとりである。彼女がSTスポットの館長時代に立ち上げた数々の企画は、2000年代のコンテンポラリーダンスシーンの礎だった。何よりも彼女の一番尊敬するところは「私がやりたいこをやっているんじゃなくて、アーティストがやりたいことをやっているの」と断言するところだ。

 「RE/PLAY Dance Edit」は、きたまり・多田淳之介・岡崎松恵それぞれの愛情と熱量が育んだ企画だ。2012年の京都で産声をあげ、雪の横浜からシンガポールへ渡り、カンボジア・京都・フィリピンを経て、今回初めて東京へと、やって来る。 出演するダンサー達は、これまでこの作品に様々な都市で関わってきたメンバーだ。集大成やゴールといった言い方はしたくないし、ふさわしくないだろう。次の一歩への新たなスタートになる公演だろう。

 「ダンスの見方がわからない」観客は、決して綾門さんだけじゃない。食わず嫌いな人もいるかもしれない。しかしながら、「もがいて、あがいて、生きること」は我々全員が実感している現実ではないだろうか?

 「ダンスとは?演劇とは?」劇場に答えはない。「わからない」という事実を共有し、答えを探すために問い続けることこそが、重要なことではないだろうか?
 ぜひ劇場で、ダンサー達と時間と問いを共有して欲しい。

【公演情報】
国際共同製作『RE/PLAY Dance Edit』東京公演
日程:2019年2月9日(土)〜11日(月・祝)
会場:吉祥寺シアター
※公演詳細は以下のHPをご覧ください。
▶国際共同製作『RE/PLAY Dance Edit』東京公演

「余計なお世話です」第三回(前編)

『肉体を通さない言葉について』


穂の国とよはし芸術劇場(撮影:綾門優季)

作業後の稽古場には木屑やビニール片がわずかながら舞っていて、それは人体に本来は無害な程度だったが、入った瞬間にたちどころにアレルギー症状を発症したわたしは、体質的に決して珍しいことではないにも関わらず、常に覚える独特の寂しさに打ちのめされながら、穂の国とよはし芸術劇場で実施された、ダンス・レジデンス2018  長谷川寧の稽古場見学を外から眺めている。ガラス越しに、観客の肉体が躍動しているさまを観ているわたしの肉体はしかし、ずっと止まっている。もっと言えば、遥か昔からずっと死んでいるようなものだ。ずっと死んでいるような肉体を引きずって日々をやり過ごしているだけだ。レジデンス期間中、ダンサーとそうではない者の入り交じるこの稽古場で、わたしは自由な肉体と不自由な肉体のもたらす己の言葉への影響のことを考えていた。

あれは世田谷パブリックシアターで、イデビアン・クルー『排気口』(※1)を観たあとだっただろうか、知人と感想を交わした際に、わたしは物語の構造上の問題について少し話したが、彼は確かその時にこのようなことを語った。物語のことなんてぜんぜん考えてなかった、イデビアン・クルーを観るといつも肉体が踊りだしたくて仕方なくなって疼く、その疼きを鑑賞中に押さえるのが大変なほどだ、と。遠い記憶なので細部を覚え違いしている可能性は充分にあるが、いま伝えたいのは細部ではなく疼きを感じたことのない者にとっての新鮮な驚きであり、以下のような疑問だ。普段から踊る彼と、肉体がずっと死んでいるようなわたしとで、どれほどまでに世界は違ってみえているのだろうか。それどころか、実は本来の肉体が目に映ったことなどなくて、肉体を通ったあとの概念にしか、わたしは直接触れていないのではないか、と。それは冨士山アネット『霧の國』(※2)のクリエーションに関わっている際に見過ごせない疑問のうちのひとつだった。肉体に自覚がないことで言葉は水に浮く油のように分離して、やがて肉体と馴染むことのない、空疎な回転をするだけのものとなるのではないか。


穂の国とよはし芸術劇場「ダンス・レジデンス2018」の様子(撮影:綾門優季)

◎肉体を通さない言葉について

身近な話から始めたい。プラスチックやハウスダストなど、他にも様々なアレルギーを生まれつき持つわたしにとって、出来ないことを他者に代行してもらうこと、世界は触れない物と入れない場所に満ち溢れていることは、ほとんど自明のこととして捉えていた。その条件が、わたしを言葉の檻の中に閉じ籠もらせる未来に、半強制的に進ませることになったといっても過言ではない。出ていけない世界の代わりに、自由になる世界を言葉で構築して、そこから一歩も出ないということ。想像の中でしか、自由に動くことさえままならないのなら、想像の大伽藍を緻密に組み上げることに専念するしかない。

やっぱりおいら言葉と言葉じゃなくて身体と身体で生きてきたから
今でゆうSNSたあ気味が悪いな。
身体が無いもの。言葉って身体が無きゃ言えねえよ。
(山縣太一『能を捨てよ体で生きる』)

オフィスマウンテン『能を捨てよ体で生きる』(※3)で出会ったこのセリフについて、あくまでもセリフであって山縣太一本人の意見というわけではないということは大前提として、「気味が悪い」という点に関してある程度同意するものの、「言葉って身体が無きゃ言えねえよ」というセリフに関しては謎の引っ掛かりが残った。それはもちろんわたしが弱い肉体であるがために舞台に関わりを積極的に持てる部門が自動的に「戯曲」と「批評」に限定されていったという条件も大いに関係しているだろうが、生まれつき身体的な障害を持つ劇作家との会話や祖父がいまわのきわに身体が完全に動かせなくなったあともただひたすら喋っていたことを思い起こせば、この世には「肉体を通さない言葉」というものが数多く存在しており、それは「肉体を通した言葉」とはまた異なる魅力を持つものであって、そこに優劣はないのではないかという疑問に直面するのだ。肉体と言葉を切断して考える可能性について。


オフィスマウンテンvol.5 『能を捨てよ体で生きる』(撮影:松本和幸)

◎肉体の射程、言葉の射程

小さな劇場から大きな劇場へと劇団やアーティストがステップアップしていくことは本来喜ばしいことのはずだが、いざ大きな劇場で作品を観てみると、これまでの魅力が色褪せてしまったように思え、うなだれて帰路につく経験を、多くの観客がしているに違いない。原因は色々あるのだろうが、ひとつには言葉の射程の問題がある。当然だが、耳元で囁かれるのと、遥か彼方から叫ばれるのとでは、同じ言葉でも全く意味合いが違う。普段の会話でも適切な距離があるように、セリフにもそれぞれの適切な射程があるのだ。


福留麻里×村社祐太朗『隙間を埋めるのにブロッコリーを使うまで』(撮影:金子愛帆)

これは、福留麻里×村社祐太朗『隙間を埋めるのにブロッコリーを使うまで』(※4)に限った話ではなく、村社祐太朗の主宰する新聞家の作品にもほぼ同様のことが言えるのだけれども、村社の紡ぐ言葉の射程は物理的な距離として決して長いとは言えない。近くで耳を澄まして、集中して聞いていたとしても、一瞬油断しただけで崖から転落するかのように意味を見失い、しばらく解釈への道筋を探すのも困難となるような独特の文体を持つ。話者が数歩動いただけで簡単に、核を見失うのではないかという不安と緊張が客席を覆う(未見だが、先日フェスティバル「これは演劇ではない」で行われた、こまばアゴラ劇場のロビートークで村社から説明があった野外での公演は、新聞家に不向きな環境のように思えたからこそ観てみたかった)。『隙間を埋めるのにブロッコリーを使うまで』にはそこに、話者が福留になったことによる手先や爪先を始めとした、制御され尽くした微細でありながらも自由闊達とした動きをも汲み取らなければならないという負荷がかかったために、観客は瞬きすることさえ躊躇われたのではなかったか。

福留麻里×村社祐太朗『塒出』(※5)ではどうだったのか。村社の言葉に対する福留のアプローチ、それはわたしには言葉を攪拌しているように捉えられた。村社から開場時に盆踊りの踊りかたの説明があるこの公演では、盆踊りを模した福留がしかしそれとは一見関係のないようにみえる振り付けによって狭いアクティングスペースを周回するうちに、やがて言葉と肉体が溶け合っているような、離れていくような、そのどちらでもあるような時間が訪れる。緊張というよりもわたしの肉体は弛緩へと向かい、その隙間に言葉が入り込んでくる。ここでは言葉を媒介するためではない使われ方としての肉体が存在している。空間に肉体があるのではなく、空間の肉体に触れているような。


福留麻里×村社祐太朗『塒出(とやで)』(撮影:金子愛帆)

<後編に続く>

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★脚注
※1 せたがやこどもプロジェクト2018《ステージ編》
  イデビアン・クルー『排気口』
公演日程:2018年8月9日(木)〜8月12日(日)
会場:世田谷パブリックシアター
▶世田谷パブリックシアターHP内『排気口』

※2 冨士山アネット『霧の國』
公演日程:2019年2月10日(日)〜8月12日(火)
会場:THE HALL YOKOHAMA
▶冨士山アネット『霧の國』

※3 オフィスマウンテンvol.5『能を捨てよ体で生きる』
公演日程:2018年12月5日(水)〜12月16日(日)
会場:STスポット
▶STスポットHP内『能を捨てよ体で生きる』

※4 福留麻里×村社祐太朗『隙間を埋めるのにブロッコリーを使うまで』
公演日程:2018年2月9日(金)〜2月12日(月・祝)
会場:STスポット
▶STスポットHP内『隙間を埋めるのにブロッコリーを使うまで』

※5 福留麻里×村社祐太朗『塒出(とやで)』
公演日程:2018年9月28日(金)〜9月30日(日)
会場:STスポット
▶STスポットHP内『塒出(とやで)』

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綾門優季さんのプロフィールなどは以下のページをご覧ください。
▶新規サポートアーティスト・急な坂の新しい取り組みについて

★次回は2019年2月下旬に第三回(後編)を掲載予定です。

「余計なお世話です」第二回
『あなたが目撃しなかったわたし』

観劇は不在との終わりのない戦いだと言って良い。スケジュール的に土日しか空いてないのに観たい舞台が8つある時、アタマが割れそうになりながらスケジュールを組むが、アタマが割れたところで必ず何かを見逃すという事実を粛々と受け入れるしかない。フリンジを含めるとすべてを網羅することが始めから出来ないようにタイムテーブルが組まれているTPAM(※1)は、内部の人間さえもが恐らくその全容を把握していない。TPAM終わりにはそれぞれの観た演目が食い違っているまま「今年のTPAMは〜」と語ることもあるが、あれはよく考えたらだいぶおかしなことで、「わたしだけの/あなただけのTPAM」しかそこには存在していない。不完全なフェスティバルの記憶を植え付けられた人間たちがピースを埋め合わせても、フェスティバルはジグソーパズルではないので、それはただ不完全さが膨張するだけの時間だ。レビューの仕事で観に行った回でたまたまインフルエンザによる俳優の降板があれば、わたしが観た代役の出ているバージョンこそが世界の真実であって、以前の配役を想像してレビューを書くことは極めてナンセンスである。演劇の雑誌にもWEBにも、観ることの出来たごく僅かなひとからの証言が溢れ、毎日のように大量発生する「観ることの出来なかったもの」についての様々な想いは、闇に葬り去られる決まりである。観てないものを語ってはいけない。観ずに褒めても貶してもいけない。風評被害は勘弁してほしい。あたりまえだ。だが、今回に限ってはその決まりを破りたい。わたしは、観ることの出来なかったものについて想像を巡らせたい。何故ならわたしは観たものだけでなく、観ることの出来なかったものについても毎日考えているからで、誰しもが直面する避けられない問題でもあるからだ。21世紀に入っても、わたしたちは技術の飛躍的な進歩によって、分裂出来るようになるわけではなかったからだ。

○あなたは世界にひとりしかいてほしくない

演劇の独特の習慣のひとつにダブルキャストというものがあって、これがどうにも馴染めないままでいる。三人ならトリプルキャスト、四人ならクアドラプルキャストというらしいが、ここまでくるとわたしは深い混乱のなかに叩き落とされる。目の前の世界がすべてだと信じたいほうなので、チェーホフ『かもめ』の上演を観終えたあとに間髪入れずトレープレフが挨拶に来た時には思わず「自殺してすぐに挨拶に来ないで!」と口走ってしまったくらいの純粋無垢な人間なのである。目の前の世界がすべてである場合、同じセリフを口走っている別の人間が存在するということを、マチネが終わったあとにあたりまえのような顔をして顔がすげかえられてソワレで登場するということを、どう受け入れていいのか未だにわからない。ドッペルゲンガー的な恐怖の対象として、ダブルキャストはそこにある。AチームとBチームを観終えたあとに、どちらが良かったですか、という問いへの明確な答えはいつも持てない。ふたつのパターンのクオリティを定量的に判断し、ジャッジメントを下す、ということがままならない。或いは生理的にしたくない。役を役としてみたくない。それはあなただと信じていたい。

わたしはその日のスケジュール、2018年12月24日は一日空いていたので、ミチタ カコ『なんにもみえない小さな星から。』(※2)のAチームもBチームも観ようとすれば観ることが出来たはずだけれども、そのようにはせず、Bチームの千秋楽だけを観たのは、的確な判断だった、と思い込んでいる。それは世界にただひとつだけの切実さとして、目の前に存在していてほしかったからだ。ミチタ カコは一貫して(といっても前回の『夏の続きは終わらない休み、雨の音は聞こえている』と今回しか観られていないのだけれど)わたし(たち)とあなた(たち)だけの密やかな契約について問うている。誰も知らない、でもわたしたちだけは知っていること。わたしたちだけが知っていて、未だに縛られていること。それは観客との密やかな契約のことも連想させる。あなたたちはたまたまこの場面を目撃した。誰にも言わないで。

水戸「どうかあなたたちが幸せでありますように」
紺野「どうかわたしたちが幸せでありますように」
水戸・紺野「そう願いあう私たちより、この何にも見えない小さな星から。」
(南雲沙希『なんにも見えない小さな星から。』、2018年)

紺野と小滝さんが一緒にいる場面を目撃した水戸は、紺野に「小滝さんは、女の子、でしょう…?」と問いかける。この作品に同性愛という言葉は出て来ない。だからこれはカミングアウトというよりも、紺野は小滝さんが好き、というただそのことだけを水戸が確認した時間だった、と信じたかった。しかし紺野が「こんな私と、今、一緒に帰れる?」という一言を放った瞬間から、決定的な溝が生まれる。水戸は誰にもこのことを言わない。紺野ももちろん言わない。わたしたちがこのことを知っている理由はない。あなたたちがわたしたちの幸せを願う理由もない。それでもわたしたちとあなたたちは、密やかな契約を交わしたのだった。

わたしにとって水戸は水戸でしかなく、紺野は紺野でしかなかったから、もう一人の水戸と紺野を絶対に目撃したくなかった。

○無数のわたしがそこにいなければならない


中村企画『せかいのはじめ』(演出・山内晶、撮影:三浦雨林)

アトリエ春風舎で、無隣館若手自主企画vol.26 中村企画『せかいのはじめ』(※3)AプログラムとBプログラムを観終えたあとに覚えた違和感は、4バージョンの演出でこの戯曲を上演するということが、戯曲の伝えるメッセージを損ないはしないだろうかということだった。『せかいのはじめ』は戯曲の中でも引用が明示されている永井均の哲学を、「わたし」と「せかい」との関係に整理して、その解決しようのない不思議さを舞台に落とし込んで呈示したものだが(詳しくは戯曲が公開されているのでそちらをご参照いただきたい※4)、この哲学的な問題は非常に個的なものであるために、それを複数回観ることについて、うまく整理することが出来なかった。実際に劇作を担当した中村奏太の演出作品と木村恵美子演出の作品では、それぞれ好演した井上みなみと外桂士朗の活躍とは別に、そのクラッシュがわたしの中に巻き起こった。演出の違いはあれ、ほとんど同じ問題を、しかしそれが個人的に言われているということについて「いや、まあ、でも、そういう企画だしね」みたいな理解の仕方で過ぎ去ることが出来なかった。そこに新しい風を取り入れたのは、主人公が不在の状態のままその周辺の人々を描くことで違う角度からその問題を浮かび上がらせた平田知之演出と、まさにその違和感を完全に払拭すべく大胆な翻案に挑んだ山内晶演出(もはや翻案というより作・演出に近い上演。詳しくは戯曲が公開されているのでそちらをご参照いただきたい※5)であった。今回は特に山内晶演出『せかいのはじめ』について取り上げたい。

山内晶演出『せかいのはじめ』において特徴的なのは、◆よしこ―小竹向原、○肇―日本、●チャスカ―アンデス山脈、★盤古太郎―中国(小竹向原も立派な日本の一部だが、劇中で小竹向原は劇場のある「いま・ここ」を表象するために現れる)の4つの世界が同時進行で描かれることで、各々の抱える全く別の問題が、アクロバティックな紆余曲折を経て元々『せかいのはじめ』が問うていた問題に接近することに他ならない。世界構築は一見同じようなメカニズムで、しかし各々の生まれた場所の違いによって全く異なるメカニズムで進む。わたし自身がそうであるように、世界を認識した瞬間のことを、他者のものと比較することは出来ないが、ここではそれが可能な状態である。肇は「鉄パイプで。超地味に。」頭おかしい人に殴られたあと、世界に対してこう問いかける。

肇 私はまだ終われない。世界も続く。
  ……なんで?
  おはよう。
(山内晶翻案台本『せかいのはじめ』、2018年)

わたしのせかいがたまたまこうであったこと。そこにはなんの理由もなかったし、理由を考えているほどの余裕さえ、世界が与えてくれないのだった。せかいのはじめは目撃出来ても、せかいのおわりは目撃出来ないかもしれないし、目撃出来たところでそれはきっと理由として到底納得出来るものではないのかもしれない。わからない。わたしはまだせかいのはじめしか目撃出来ていない。

○すべての時間を目撃することは出来ない


バストリオ『オープン・グラインドハウス』(撮影:綾門優季)

バストリオ『オープン・グラインドハウス』(※6)のすべての時間を把握することは無理に等しかった。一日だけ見逃したわたしはおろか、ずっとそこにいたはずの関係者さえもが絶えずあちこちで生み出される断片だけを目撃し、そこで何が起こっていたのかを把握している者は、もしかしたらこの世界に誰一人としていないのかもしれない。数時間そこにいても数分そこにいても、気になるのはわたしのいた時間ではなく、わたしのいなかった時間だった。わたしは今から目撃することの出来た時間だけを語る。それは作品全体を見通してはいないかもしれないが、確かに世界に現れた細部だ。そして世界はいつでも細部に宿るのだ。

Day1

俳優も少なからずいる静かな展示のようなものを期待していたので、吉祥寺シアターの中に響き渡る電動ドリルの盛大な音には面食らった。仕込みのお手伝いにきたわけではなく、既に作品は始まっているからだ。作品を作っている段階もまた作品である。
真横に物凄い勢いで怒られている男が映しだされている。準備してあった映像ではなく生中継しているものであるぐらいのことは察しがついたが、とにかくわたしが着いた途端に怒られ始めたので、どれぐらいのことをしたら人はこんなに怒られるのだろうという想像が膨らむ。バストリオの人たちから経緯を伺う。わたしも「いせや」(※7)にカメラを持って突然入るのは危険過ぎる、と頷く。
しっかりとしたごはんが振る舞われ始める。が、アフタートークの質疑応答といっしょで、最初のひとりが食べないと誰も食べない謎の時間が流れる。最初のひとりとしてカレーライスとおひたしと焼き鳥を食べ始める。カレーライスが通常のカレーライスではなく、様々な具材が入っている(様々すぎて何が入っているのか食べただけではわからない)素材の甘味の引き立ったルーと、サツマイモを炊き込んだ食べごたえのあるごはんで、まだ17:00ぐらいだけれど、今日はもうこれでごはん食べなくていいなと思う。


バストリオ『オープン・グラインドハウス』(撮影:綾門優季)

Day2

吉祥寺図書館に昨日借りた本を返したあと、吉祥寺シアターに向かう。扉が開いてなくて、あれ、そういえばこれ、何時から何時までだっけ、と思ったぐらいでゴゴゴゴゴ(という擬音じゃ正確にはなかったかもだけど気持ち的にはゴゴゴゴゴ)という唸りを立てて、搬入口の重い大きな扉が開く。向こう側にバストリオの人たちが揃っていて、アクロバティックな出会い方にちょっと笑ってしまう。
色んなものが出来上がりつつあり、昨日よりも落ち着いた雰囲気。坂あがり相談室plusでバストリオがやっていた『扉の開け方』の時と比べると、急ピッチで空間が進化していて驚く。秩序だってもいる。違うけど人類の歴史を早送りして辿る番組のことを思い出す。急な坂スタジオの時は期間が20日間だったけど、今回は6日間だから、いなかった時間が数時間あるだけで、みたことのないものが突然出現したり、知らない流れが突然生まれたりということが、たくさん起こりそう。
納豆サンドイッチをお昼にいただく。来たらとりあえずなにかを食べられるシステムなんだろうか。そんなことはないだろう。
パスタもちょっとだけいただく。

Day3

バストリオ『オープン・グラインドハウス』に訪れると、必ずフライヤーの後ろに日替わりのスタンプが貰える。朝のラジオ体操を思い出すシステムである。朝のラジオ体操のような習慣として、例えば一年でも十年でも同じ作品を作る過程に立ち会えるとしたら、それはとても豊かな時間が訪れるのではないかと観客の一人としては思うけれども、『扉の開き方』の最終日にも「20日間で良かった、そろそろ空間が限界だった」と誰かが口にしていたように、終わりがあるからいいのかもしれなかった。
向こう側で何かの準備をしているけれど、わたしはすぐに稽古に行かなければならなかったから、何の準備だったのかは今でも知らない。

Day4

スタンプだけ押して出る。スタンプが可愛い。

Day5

思い出の品と引き換えにコーヒーをいただける場所が『オープン・グラインドハウス』にはある(綾門はコーヒー好きであるにもかかわらずコーヒーアレルギーなので、代わりにオレンジジュースをいただいた)。Day1に同じ吉祥寺シアターで奇遇にも前日に上演されていたわたしの戯曲『景観の邪魔』の1シーン「愛着」と引き換えにオレンジジュースをいただいた時にはまばらにポツポツと品物が置かれていた場所は、今では有象無象のものでごった返していて、知らない民族の神棚のようになっている。そのひとつひとつの札を眺める。札にはそれぞれの来歴が書いてあるのだ。何も括り付けられていない札には、ここで歌が歌われたという説明があり、その歌を聞きたかったなと思う。でもその歌がここで歌われたことについて思いを馳せることは、その歌を聞いていては出来なかったことでもあるので、これはこれでいい体験である気もする。
Day6はスケジュールの都合で行けない。それを最初から知っていてDay5まで毎日通っていたことを吉祥寺シアターの方に伝える。スタンプが一日だけ押されていないフライヤーは手元にある。パフォーマンスはみられなかった。たとえ再演されるとしても、この空間がこのように存在するなかで行われるパフォーマンスは、この世界では永遠に失われた。


バストリオ『オープン・グラインドハウス』フライヤー(撮影:綾門優季)

Day6

この5日間のことを、電車に揺られながら思い出していた。どの日のことかわからない記憶もあった。その記憶については、ここに書いていない。

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★脚注
※1 TPAM(国際舞台芸術ミーティングin横浜2019)
会期:2019年2月9日(土)〜17日(日)
▶TPMA公式サイト

※2 ミチタ カコ『なんにもみえない小さな星から。』
公演日程:2018年12月22日(土)〜24日(月)
会場:bar星男
▶bar星男HP内『なんにもみえない小さな星から。』

※3 無隣館若手自主企画vol.26 中村企画『せかいのはじめ』
公演日程:2018年12月22日(土)〜30日(日)
会場:アトリエ春風舎
▶青年団HP内『せかいのはじめ』

※4 ▶無隣館若手自主企画vol.26中村企画『せかいのはじめ』台本

※5 ▶山内晶翻案台本『せかいのはじめ』

※6 バストリオ『オープン・グラインドハウス』
公演日程:2018年12月10日(月)〜15日(土)
会場:吉祥寺シアター
▶バストリオHP内『オープン・グラインドハウス』

※7 いせや
吉祥寺シアター近くにある焼き鳥屋

「余計なお世話です」第一回

『塞がれていた目が開く』

◎星を指し示すばかりでは

「余計なお世話です」という連載のタイトルは、「余計なお世話です」とひとに言われることを恐れずに書こう、という意思を未来の私が確認出来るように、そう決めた。

連載の初回なので、この連載がどのような趣旨のものか、簡単に説明しておこう。元々は急な坂スタジオのサポートアーティスト募集の最終面接で、私の言ったことがそもそもの始まりだけれども、その際のとりとめのない喋りをそのまま書くと読みづらいうえに短すぎるので、ある程度整理してからここに記す。

私が大学生の時に、舞台批評のまねごとを始めた頃から、演劇の雑誌は続々と休刊に向かい始めていた。「昔は良かった」という話をいろんな先輩から聞いた。その「昔」を私は知らなかった。雑誌に寄稿したことも単行本に寄稿したこともあるが、それらはいずれも演劇を専門とするものではなかった。対談とインタビューだけ、演劇の専門誌には載せてもらった(ただしそれは劇作家として恐らく呼ばれている)。はじめて原稿でお金を貰ったのもWEB、いま主に原稿を書いているのもWEB、そしてこの連載もWEBだ。だから私はWEBが主戦場になってからの苦難しか語ることは出来ないが、その苦難はこれからも続いていくだろう。それは端的に言うと「短い言葉しか求められないこと」の苦難だ。それをアーティスト側にあてはめれば、「瞬間的に最大級の光を発することばかり求められること」の苦難だ。打ち上げ花火もいいが、打ち上げ花火大会の最中に、片隅でひっそり、なるべく終わらないように線香花火を持っているような、そういう連載にしたい。か細くても、光り続けている。

補足すれば、短い言葉が悪いわけではない。むしろ大量に紡ぐほうだ。「Twitterでお見かけしてます」という挨拶を初対面でよくされる(Twitter以外で「お見かけ」してもらえるように引き続き頑張っていきたい)。ただ今年いただいた舞台批評関係の仕事の文字数はすべて「100字〜2000字」の範囲内に留まる(唯一、字数無制限だった名古屋学生演劇祭の講評文だけ約7500字書いたが、15団体について扱ったものなので、これを長いと捉えるか短いと捉えるかは価値観による)。仕事量は緩やかに増えているが、文字数はなかなか増えていかない。雑誌がないから、そもそも長文のオファーというもの自体が、絶滅危惧種であるからだ。毎年のように数万字の戯曲を執筆している身からすると、驚くべき短さである。私の把握している限りでは(数百人の若手が凌ぎを削っているような界隈では全く無いので私の把握している限り≒現状な気がして怖いけれども)、他の若手も似たり寄ったりの状況である。もちろん、ほとんどの原稿ではひとつの劇団、あるいはひとつの作品について書くことになる。それも必然性のあることだ。チラシに一万字超の舞台批評が載っていても困る(字が小さくて読めない)。WEBでView数を期待されるなら、一万字のものを一本書くより、千字のものを十本書くほうが効率的だ。だからこの連載は、View数を稼ぐために書かれるわけではない。気にしないといえば嘘になるが、少なくとも最優先事項ではない。

星を指し示すばかりでは、星座は見えてこない。デネブだけ知っているのは損だ。夏の大三角が綺麗な日もある。夏の大三角を知っていれば、はくちょう座とわし座とこと座の話が出来る。七夕の伝説の話にも繋げられる。冬の大三角もある。もうすぐ冬ですね。そういう話をしていこう。輝いている星を指し示すのもいいが、たまには夜空を見渡したい。ここには発見されていない星座がきっと無数に眠っている。

◎ふるさとを背負った仕事


さんぴん『NEW HERO〜飛んで那覇まで、香りに連れられて〜』終演後の様子(撮影:綾門優季)

今日ふるさとを出て生活している人びとで、そのふるさとを背負っているという感じの人は大変少なくなった。
(宮本常一「ふるさとを背負った仕事」より)

沖縄県立博物館・美術館に立ち寄ったのは、さんぴん『NEW HERO〜飛んで那覇まで、香りに連れられて〜』(※1)のシーンのひとつ「ナショナルジオグラフィック」で、さんぴんのメンバーが体を張って(半ば無理矢理)沖縄県立博物館の展示を再現していたからだが、ついでに寄った沖縄県立美術館で開催されているコレクション展「儀間比呂志の世界」でふと、宮本常一の文章が目に止まった。これは「那覇十・十空襲」「石垣の女」「糸満の海人たち」など、タイトルからも察せられる通り、沖縄の歴史や風景に重きを置いた儀間比呂志の仕事を紹介する文章の一節だ。ふるさとを背負う仕事というのは通常、みずからのふるさとを背負う場合のことを言うだろうが、さんぴんの特殊性は、みずからのものではない、ひとのふるさとを必ず背負って作品を作るという、その姿勢にある。さんぴんは劇作家・演出家不在の、俳優4名で成り立っている劇団で(ロロの三浦直之が演出監修に旗揚げ当初は入っていたが今は外れている)、フィールド・ワークをし、突撃インタビューを重ねたその本人たちが、そのまま舞台で演じる。来たばかりの土地、出会ったばかりのひとのオーラを、自由闊達に身に纏う。私はさんぴんの作品を池袋で、仙台で、那覇で、北千住で観るたびに、会ったこともないひとびとの、暮らしている土地を、故郷の記憶を、かつて旅した場所を「幻視」した。目の前にいるひとびとが板橋駿谷、北尾亘、永島敬三、福原冠であることを一瞬だけ忘れた。そこは劇場ではない場所になって、客席ではないどこかにいた。それは私にとっても旅だった。行ったことのない場所への旅。知らない人の経験が私の中に入り込んでくる。知らない景色が目の前に広がり始める。現実から離陸する貴重な時間が訪れる。

◎私は街に出る時、常に誰かの景色

池袋駅に降りるといつも、東京芸術劇場に直通の地下の通路へ、どう行けばいいかわからなくなり(わかるときもある)、諦めて西口のエスカレーターを上ってしまう。エスカレーターに乗る手前の広場で、F/Tモブに参加していた記憶がブワッと蘇ることもあるが、もうみんな忘れてしまっただろうか。エスカレーターを上るとたまに、ストリートミュージシャンが演奏をしている。どこかの党の街頭演説が、聞きたくなくても耳に入って来る。どうしても心が死んでいる時は、イヤホンを耳につけて、すべての情報をシャットダウンして、真顔で劇場へ向かう。横断歩道の向こうにはマックとサブウェイ、全然入ったことがない。松屋と吉野家とちょっと向こうにあるサイゼリヤは、確か今年のどこかで入ったはずだ。PRONTOの記憶はおぼろげだから、去年のどこかで誰かに連れられて入ったのだろうか、一人では入らない店だから。みたいなことが、横断歩道を渡っている最中に脳裏によぎるときは、もれなくお腹が空いている時だ。セブンイレブンでおにぎりを買う。時間と気分に余裕があれば、東京芸術劇場の中にあるおにぎり屋の、ちゃんとしたおにぎりを買う。梅か明太子を買う。公園でホームレスの人が歌を歌っている。いつ聞いても何の歌を歌っているのかわからない。あのホームレスの人はいつみても酒を飲んでいて、楽しそうにしている。『三文オペラ』(※2)の上演中にあのホームレスがどこにいるのか気になっているのは、私だけじゃないはずだと、『三文オペラ』の準備をしている風景を見ながら思うが、この疑問に答えは与えられないのだろうと、脳内をリセットして、公園を突っ切って、劇場の入口へ小走りで向かう。


池袋駅から東京芸術劇場へ向かう途中(撮影:綾門優季)

〈芸劇オータムコレクション〉バック・トゥ・バック・シアター『スモール・メタル・オブジェクツ』(※3)を観ている時、私の目に飛び込んできたのは、真顔でせわしなく動く人々と、その暗黙の了解によって統制された動きから時折はみ出す人々の美しさだった。池袋西口公園の、通常であれば舞台として使われる場所に客席が設置されていて、観客は常に、横断歩道を迅速に歩く人々の姿が、否応なく視界に入ることになる。池袋西口公園を通過する、横断歩道よりもまばらに点在する人々の顔。細かい表情の変化まで飛び込んでくるようだ。様々な人々が通過する中で上演は始まる。知らされていなければそれが上演とは気づかないほどに、作品は風景に溶け込んでいる。演者が誰なのか見失ってしまうほどに。音声はヘッドホンによって、日本語訳と共に伝えられるため、池袋の喧騒はこもったかすかな音として届くだけで、景色だけが鮮明に映る。公園を突っ切る人がいる。服装さえ近ければ、それが私であるかのように「幻視」したかもしれないが、ピーター・パンのような格好をしているので、そんな混乱は起こらない。ピーター・パンが何故か戻ってきて、こちらを見てくる(彼のことはピーター・パンとこれから呼ぼう)。ピーター・パンは立ち止まって、眺める、から、凝視する、にモードを切り替える。私も意識的に目を合わせながら考える。ピーター・パンは別の舞台に出る出演者か何かだろうか。化粧といい衣装といい、他の人々からは浮いている姿だ。どうしてこんなにこちらをじっくりと観てくる? もう5分は経った。目の前を通過する人々が、こちらのほうも、ピーター・パンのほうも、訝しげにチラ見しながら通り過ぎていく。演者の方は風景の中に溶け込んでいるため、意外と注目が集まっていない。舞台上にいる観客が、この風景のいちばんの異物だ。それとピーター・パン。いつも通り過ぎていたはずの池袋が、見たことのない、二度と再現の出来ない、完璧に構築された舞台美術としていつのまにか出現する。そしてそれは錯覚ではなく、昔も今もそうだった。これからもそうだ。毎日がそうであるはずだった。ヘッドホンで耳を塞ぐことによって、私の塞がれていた目が開くとは、何と皮肉なことだろうか。

私たちは記憶を背負って生きている。私がピーター・パンを覚えているように、ピーター・パンの記憶の片隅に、今でもあの日の光景が留まっていればいい。それは必ずしも、演劇の中の体験だから、ではない。私の人生の断片は、誰かの脳内の舞台で演じられているのだ。特別な景色として刻まれているのだ。

さんぴん『NEW HERO〜味と匂いの北千住〜』のラストシーンのセリフはこうだ。

「プレシャスでデリシャスな日々をお過ごしください」

私たちはそのように過ごす。
これまでもそうしてきたように。


さんぴん『NEW HERO~味と匂いの北千住~』より。(c)bozzo

★脚注
※1 さんぴん『NEW HERO 〜突撃!隣のプレシャスご飯、デリシャス!!〜』
【北海道公演】
『NEW HERO〜札幌、旅の始まり コクの深まり〜』
公演日程:2018年10月6日(土)〜8日(祝・月)
会場:よりⓘどこ オノベカ
【沖縄公演】
『NEW HERO〜飛んで那覇まで、香りに連れられて〜』
公演日程:2018年10月20日(土)〜22日(月)
会場:アトリエ銘苅ベース
【東京公演】
『NEW HERO〜味と匂いの北千住〜』
公演日程:2018年11月1日(木)〜7日(水)
会場:北千住BUoY
▶さんぴんHP内『NEW HERO 〜突撃!隣のプレシャスご飯、デリシャス!!〜』

※2 東京芸術祭2018直轄プログラム『野外劇 三文オペラ』
公演日程:2018年10月18日(木)〜28日(日)
会場:池袋西口公園
▶東京芸術祭2018HP内『野外劇 三文オペラ』

※3 東京芸術祭2018芸劇オータムセレクション
バック・トゥ・バック・シアター『スモール・メタル・オブジェクツ』
公演日程:2018年10月20日 (土) ~29日(月)
会場:池袋西口公園
▶東京芸術劇場HP内『スモール・メタル・オブジェクツ』

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