気になるアーティストの『視点』に迫る!
つくりてのしてんは、普段自分や自分と近しい視点からものを見がちな白神が、
他の作り手が「今何をみて何を捉えているのか」を様々な角度から捉えようという試みです。
第3回目には、急な坂スタジオのレジデントアーティスト・岩渕貞太が登場!
間近に控えた公演の稽古場にお邪魔しました!
公演詳細は、コチラ!!
第3回目 『斑』の稽古場 岩渕貞太さん
つくりてのしてん、今回は2月12〜14日野毛シャーレにて行われる『斑』の稽古場にお邪魔してきました。
貞太さんと言えば、最近私の中で観察しがいのある方、と言うとなんだか失礼な感じですが、身体への思考、ダンスへの姿勢から本人の持つコンプレックスに至るまで非常に興味をそそり、イカれた存在であるのに本人は至ってまっすぐな視線を持っている…やっぱりイカれた存在です。(尊敬の意です)
「身体を多面的に捉える振付家」と言われる通り、独自の「身体地図」や「網目状の身体」という観点から身体や、日常のふとした反応、脳と身体の関係などを日々観察、研究をしている、いわば「研究者肌ダンサー(振付家)」(勝手に思っております)。それでいて、全く読めない動きが飛び出すこともしばしば。この「読めなさ」についても毎回その都度事象を分析し、脳や身体の回路を読み取ろうとしています。(って、もー、どういうことですかっ。)
そんな岩渕さんの稽古場です。
事例を出しつつ、
そう、ダンス作る時って話している時間長いです。私も。
小暮さんとモモコン北川さんという二人の違った身体と言語を持ち合わせたダンサーと知恵と思考を巡らせる、「分からないけどすごく知的な時間」が流れていました。
前回の通しについての感想と良かったときの状態や思考回路を検証しあっていて、
「やらなければいけない」ことを「やらなくても良い、何をしても良いという選択肢を持ち合わせた上でやってみる」をするとどうなるかとかほぼ哲学や脳科学な世界。
そんなようなことを踏まえた上で、作品の一部分を通してくださいました。
もう、いろいろ、言葉にすると限定してしまいそうであまり言えないですが、強いて私の勝手な妄想で言えば、『生態学的ダンス』だな、と。
なんというか…、
一つの動きや思考回路が生まれては死に、生まれては死にしていく中で何かが強く出るとその影響で死んで滅びてしまう環境や振付があり、それでも続く営みによってつながっていく世界という印象でした。
ネガティブな事象もその営みの一つとして受け入れている作品(環境)にしたい、というようなことを岩渕さんから聞いて、私は、ふと地球ができた不思議について思いを巡らせたのでした。
身体というミクロな乗り物に乗って顕微鏡で覗く微生物の世界から人間の歴史、地球、飛んで宇宙規模の出来事を連想させていくのもまたダンスならではの出来事だと思います。
でも、まだ一部しか拝見してないので、この後の展開含め全編観るのが楽しみです!
2016年2月5日(金) テキスト・写真 白神ももこ
記念すべき第1回は、カメラマンの鈴木竜一朗さん!
どんな『視点』があったのでしょうか…
序文
私は、今まで自分のフィルターを通して見えた世界や人の面白みをダンスにして提示してくることばかりやってきたように思います。
ただ、その視点は散漫で、過去も未来も右も左も曖昧な世界でした。
私は、ここ最近モモンガ・コンプレックスの活動で、時間三部作として「過去」(大失敗。)と「未来」(秘密も、うろ覚え。)を題材にした作品を作ってきましたが、その最後となる「現在」を扱うこともあって、『現時点』にある『視点』について考えようと思いました。それから純粋に『人が見ている視点』を知りたい、そんなところからはじまりました。
まず、はじめは、シンプルに今そのときの一瞬を切り取っている写真のことが気になりました。
そして「今」を切り取るその時の視点がどこにあるのか気になって、写真家の鈴木竜一朗さんと撮影散歩に出かけてみたのでした。
・・・とはいえ、、写真というものに今まで申し訳ないくらい興味がなく、カメラを持っていても撮らずに自分の目に焼き付ける方が良いと考え、カメラを向けられても謎の警戒心で身構えて毎回ハニワ化していた私としては、一般的なことなども含めて知らないことが多く発見があるのでした。
第一回目。(5月21日11:00〜14:00)
急な坂スタジオ〜野毛山動物園〜野毛山公園
〜ショット〜
鈴木さんの持っている今日のカメラはCanonのデジタルカメラ『EOS 5D』とiPhoneとFUJIFILMの『FP−1』というポラロイド。
なかでもポラロイドは手間がいるのとネガ枚数が少ない&高価なため、いちいち撮る時が渾身の一撃的なショット。
このシャッターを切るショットという言葉。狙い撃ち。
小さな四角い覗き穴から被写体と向き合っている姿勢と集中がなんとも魅力的な様子で、その視線を向けられた相手と何らかの緊張関係が一瞬結ばれる。
なんていうか、剣の達人が刺客の存在に気づき、お互いピンと張りつめた糸のような緊張感で息を殺すあの感じ、、(ああ、表現が乏しい。。)
まあ、緊張関係って言っても相手が虎とライオンだったからかもしれないですが、人間だったらカメラと分かっているのでハイチーズ!てな感じになるでしょう。
ただ、やはり写真を撮る時の撮る側と撮られる側の何らかの緊張というか意識のつながりのような感覚はどちらもあるなと。
「カメラ構える人って良いですよね。」と遠足の小学生を撮るカメラマンを見て言うと、「そうなんだよねー」とカメラをそのカメラマンに向ける鈴木さん。
この撮る側が撮られてる感じ、、不思議な感覚。
ちなみに私もカメラを構えてる時の鈴木さんを撮ろうと四苦八苦するも、デジカメが電池切れ、携帯のシャッターが遅い、などのあたふたぶりで全く撮れませんでした。これじゃ、刺客に入ってもすぐ捕獲されてしまう…。無念。
鈴木さんといろいろな話をしているなか、印象に残ったのは、このカメラの技術の移り変わりと構え方 =人との向き合い方の移り変わりと比例している?ということ。
今や、スマホなどで簡単に写真が撮れてしまうけれど、簡単にすぐに消せもする。
もし、なにもかもが全て燃えてしまってもネット上に永遠に残り続けるかもしれないし、逆にもしかしたら全て消滅してしまうかもしれないこと。
カメラの発達は戦争とも深く結びついているため、ショットという言葉があるように、戦い方の変化と同じようにシャッターを切るスピードや人間の向き合い方も変わってきた。
ボタン一つで全てなかった事になってしまうかもしれない現代の怖さも感じました。
カメラ(写真)は時代を切り取る&時代に直結している。なによりも具体的に。
『(写真は)この先どこへ行くのか全く見えない。』とどうなるか分からない事を悲観したりする事なくむしろ楽しそうに飄々と話す鈴木さん。
自分の作品では敢えて古い機材や普通なら捨てるポラロイドのゴミなどに着目して作品にしている。
丁度私たちが古典作品、シェークスピアや歌舞伎作品を上演したりするのと同じことだなーと思った。
新しくなりすぎて、そのスピードに人間がついて行くだけになっていると大事にしている軸を見失ってしまいますもんね。
とくにカメラは進化がスピーディー。
カメラを構えている人がこの先をどう見ているのか、とても気になったのでした。
次回は、仕事場にお邪魔して、ある注文や素材がある場合にどこを見ているかを見学します。(アシスタントとして使ってください!)
テキスト:白神ももこ
写真:鈴木竜一朗
今回出て来た参考文献
ゲイリー・ウィノグランドの写真集 「The Animals」(1969年)
『ライフ・オブ・パイ』(映画、アン・リー監督作品、2013年)
第2回目(12月某日、駒込のmaruchanにて)
今回は前回に引き続き、写真家の鈴木竜一朗さんについて。
写真を撮るということに本当に全くと言っていいほど興味のなかった私は、何故写真を撮って空間を切り取るのか、何故その絵を撮ろうとしたのかというその瞬間の「何故」の謎を知りたく、鈴木竜一朗さんにお願いしてインタビューしました。
5月は動物園や野毛山公園にお散歩して実際に写真を撮りながらどこに狙いを定めているのか、シャッターチャンス(ショット)についてお話したかと思います。
今回は、12月1日から駒込のmaruchanというカフェギャラリーで行われた展示『予定運命のかけら』に押し掛けて行き作品についてあれこれお聞きしてきました。
会場は、駒込にあるmaruchanというカフェでとってもアットホームでなんだか誰かの家に遊びに来たみたいなところ。
今回は、『予定運命のかけら』という題材。A3サイズの洋書に使われる紙みたいな用紙に印刷された写真がきれいに整列されていました。
片方の壁には白黒のメキシコのオアハカのお盆?(「死者の日」という名前のお祭りで、先祖が蘇る日とされており、夜になると家族総出でお墓に出向き一晩過ごすそうです)をポラロイドで撮ったものが、もう一方の壁にはいろいろな国のカラーのもので、剥離式ポラロイドというフィルムの剥がした際に捨てる部分を使った写真がランダムにならべられていました。
白茶という中国茶を注文した私は、お茶をすすりながらぽちぽち質問してみたのでした。
質問その1:今回何故、この「予定運命のかけら」というタイトルに?
鈴木:今回の展示はこの一年間で撮ったポラロイド写真の中からセレクトしたもので、いろいろな場所で撮影したものが混ざっています。剥離式のポラロイドを特殊に処理した際に得られる効果の有機的な印象と、自分が様々な地域を移動しながら風景を切り取っては帰って来ることと、それらについて改めて想いを巡らせた時に思い出された言葉が「予定運命図」という生物学の用語でした。
(白神) おお〜、そうだったのですね!生物学から。紙はどのように選んだのですか?
鈴木:今年の2月にカンボジアで撮影の仕事(http://mekongblue.jp/)があり、その写真が大きな印刷物になりました。その製作段階でデザイナーさんが「鈴木さんが作品として撮影している写真も取り入れたい」とアイデアを出してくださいました。自分のポラロイド作品が印刷物になったものを手に取ったら予想以上に感動し、作品を印刷物にして展示するのも良いかもしれない…、と思いつきました。紙は、タブロイド紙のイメージから選択しました。
その2:今回の配置はどう決めたんですか?
鈴木:「地球を胚に見立てて、撮影行為を予定運命図の作成に見立てて…」という考えがあったので、当初は地図のように配置しようと考えていました。が、この場所に実際飾ってみたらシンプルに列べるのが良いな、と。また整列させることで座標のような関係性が生まれ、今まで気づかなかった組み合わせでの構図の面白さに気付かされたりもしました。展覧会の当日にバランスを見て足した作品も3枚ほどあります。場所とのバランスは重要ですね。
その3:写真のセンターはどこと感じて撮っていますか?
鈴木:僕の写真はシンボリックなものが中心に写っていることが多いです。ポラロイドカメラに出会う以前は大判カメラを三脚に据えるスタイルで撮影をしていました。自身と世界との間にカメラを(フィルムを)据え置く、というシンプルな感覚を持って、「距離」や「境界」を意識した作品を創作してきた経緯があります。対象にまっすぐ向き合おうと努めることで、ストレート・フォトグラフィ(敬愛する写真家 アウグスト・ザンダー/August Sanderの作品のような)というか、自ずと対象を中心にとらえる構図になってゆきました。現在は手持ちのカメラを使用しているのでとっさに撮影することもあり、そういった構図の安定していない写真も気に入っています。
その4:同じ建物を撮った写真が2つあって並んでて片方がちょっと変なんだけどどうしたの??
鈴木:先の写真を撮った直後に犬が壁に小便をし始め、うおぉ!!と思って急いで撮ったのですが、先に撮影したポラロイドを引き抜いていないことに気づいて撮影しそびれたと思っていました。翌日、別の場所で大きな樹を撮影してポラロイドを剥がしてみたら、撮りそびれたはずの写真が部分的に残っていて多重露光になっていたのです。予期しないことが起こるのはこの撮影方法の面白いところです。今回のテーマの中では異質な一枚ですが、とても気に入っています。結局、犬はあんまり写っていないのですが…笑
「予定運命のかけら」について思ったのは、ほのぼのした日常の良い時間を純粋な感動を切り取っているようにも思え、それは、昔の映像でたまに見たりする16ミリのホームビデオを世のお父さんが撮ってた頃のような暖かみを感じました。あと、ライト兄弟とか!そんな感覚。
それを言ったら、ジャック・アンリ・ラルティーグ/Jacques-Henri Lartigueという写真家を教えてくれました。良く調べたら、見たことある〜!って写真。
ちなみに全体のバランスとかを見て、展示する予定のなかった左端3枚の写真にはセンターがなく、地平線のようで実はたくさん細かく建物やら凧あげやらが見つかる写真で、これは大好きなピーター・ドイグ/Peter Doigの絵の雰囲気に似てたので気に入っているそう。
撮った瞬間に頭に描いた写真と様々な行程の間に違うものになっていってしまい、そういう特徴のあるものだから撮ったときは意図してなくても似てるってことがあると、そこに「おお!」となるようです。
ポラロイドで撮ると撮った瞬間と写真が出てくるまでに時差があって、さらに剥がしたものを現像するまでにまた時間がかかる。そして不思議なことに懐かしい感じの素材と色味のある写真が出来上がる。この作品を見ていると写真を見ている「今」がとっても未来で、その未来から「今」という過去を見ているような感覚がしました。不思議。紙の質も相まって、思い出の質感がありました。
ちなみに、鈴木さんがこういう古いものに執着する原点は家にあるアルバムで、お祖父さまは「日光堂」という写真館を経営していたそうで、そのお祖父さまの写真が近くにあったというのも今思えば強烈な原点にあるのかもしれません。
その5:その他にもこれが自分の創作の根っこだなーと感じるものってありますか?
鈴木:高校生の頃、下北沢かどこかでたまたまAgnes b.の「ポワンディロニー」というアート・フリーペーパーを見つけ、持って帰って部屋にずっと貼っていました。そこに印刷されていた作品がタシータ・ディーン/Tacita Deanのものだと知るのはずっと後になってからなのですが、先日MoMAでたまたま現物作品を初めて目の当たりにして感動して、、懐かしさというか、創作における初期衝動のようなもの(単純にかっこいい!と思う感覚や、美しい作品への純粋な憧れ)を思い出したような気がしました。
私も…少なからず小さい頃に観ていた宝塚歌劇団と父の出ていた小劇場が影響していますね…。「ノバ・ボサ・ノバ」の群舞とか、「鼬」というお芝居で褌姿で駆け回る父とか、今考えると強烈だったんだと思います…。
私の回想はさておき、生きているといろんな『良い瞬間!』に出会えるので、それを“じっと待っている”作業は、ダンスのリハーサルの時を時と似ている気がします。
この展示では、お家でお茶を飲んでいるような雰囲気で、たまたま居合わせた人たちとも前からの友だちみたいに仲良く喋ってゆるゆると時間が流れていて、この瞬間にも何度か良い瞬間、シャッターチャンスになる瞬間があったように思いました。
(まだまだそこでシャッターをおろす度胸とスキルが私にはなく、ただただ胸に刻むだけでしたが。)
でも、こうやって写真をとるみたいなことを意識しながらすごすと一瞬一瞬を意識できるような気がするのでした。
「心シャッター」というのが自分の身体に内蔵されていたら面白いのにと思いました。いらないけど(結局とっておけない気がするから)。
参考資料・会場に掲示されていた展覧会に関しての説明文
“ 予定運命のかけら ”|“ piece of fate map ” (2015)
『予定運命図』という言葉を聞いたことはあるでしょうか。
1929年、ドイツのフォークトという学者がイモリの胚を局所的に染色し「予定運命図」というものを作成しました。
一見、ただの球体にしかみえない胚の、ある部位は神経や脳に、またある部位は眼球にと将来の運命が決まっているというのです。高校生だった僕は、生物学の用語に「運命」という言葉が使われていることに驚き、感動しました。また、その染め分けられた「予定運命図」を、惑星のようだと感じたことも憶えています。
2012年頃から僕は撮影で海外へ出かける機会が増えてゆきました。
各地でポラロイドを切っては、帰国してそこからネガを抽出する作業を続けています。剥離式のポラロイドは表面の薬品の乾燥に時間がかかるため、旅先の気温や湿度、紫外線や空気中の塵などによって乳剤面に様々な反応が引き起こされます。その結果として色彩の崩壊、乳剤の剥離、傷などの効果が発生します。これら化学的(物理的)な変化と、風景や被写体をフレームで切り取るという撮影行為との関係性に思いを馳せたとき、記憶によみがえったのが「予定運命図」のことでした。
地球を胚に見立て、様々な国での撮影行為を局所染色法と捉えることはできないだろうか。そして現れた変化を観察することで、一連の写真を「予定運命図」としてみることはできないだろうか。
今回の作品構成の背景には、こういった考えが伴っています。(鈴木竜一朗)
■次回更新を、お楽しみに!