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Aokidのコラム「Drawing & Walking」第7回

ダンスだけではなく、絵や美術など様々なアプローチで踊り続けてきたAokidさんは、どんな言葉を紡いでくださるのでしょうか。
このコラムでは、ふと思い浮かんだことや、稽古場や様々な場所ですれ違った人・ことについて綴っていただきます。
Aokidさんの独特なリズムで綴られる文章をぜひお楽しみください!

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Aokidのコラム「Drawing & Walking」第7回

乾燥の12月

12月。すっかり冷えてきた。先日、自主ソロ公演を終えた。その公演の前後、作る前と今、発表後、伸び代のような考える時間が生まれている。”ここから”という感じ。あるいは”これ”を持って、という感じ。
今年はお弁当サイズの自主企画を複数回重ねたよ。スタートアップの助成とかをとればよかったのだけど逃してしまった。
レストランは開けず、街のお弁当屋さんとして動いた2022年、か。

こないだ友達の家で集まりをした時のこと。武本くんの作った唐揚げとおでんが美味しく、久しぶりにこたつにも入った。忘年会と言うには早かったかなとも思ったのだけど立派に忘年会の集まりになった。ダンスや演劇、アートなど微妙に活動の違うそれぞれが、ゆるく立場を越えて少しずつ内容を修正、補正しながら話したり、その中での仲良しの2人が順番に音楽がかりとしてプレイリストをかけていく。てっきり僕がどこでも踊りたくなってしまう性分だと思って、音楽を用意しなきゃとも思ったとのこと。ユーミンから始まって色々聞いた。
帰り道、自転車でまっすぐの住宅街を夜中の1時くらいに走っていると、道路の白線と街の建物たちが自転車を真ん中にして滑らかにスライドするように少しずつ身体にあたって、後景化していくみたいで気持ちいい夜だった。自転車型のゲーム、センターみたいに。
それもこれも、さっき単に人が集まった時間があったことの温もりから抜け出た対称的な温度がそうさせたんじゃないかと。そこを抜けて大きな通りに出るとそんなことは再び感じられなかった。

KAATで昨年に引き続きリサーチプロジェクトで数人のダンサーや俳優が伊藤郁女さん、長塚圭史さんのもとに集まった。
今年のテーマ”オノマトペ”を頼りに開始する。
いくつかのゲームはKAATの現場スタッフ勢にも混じってもらう。郁女さんはフランスの劇場監督に抜擢され、来年から早速動き始める中で職員の人とも身体のワークを共有するつもりだと言う。それは身体のことを知ってもらうことで、言葉以外での動きの広がりや速さを仕事場に作って進めたいというような意図があるということ。また職員の人たち1人ずつと話をしていくところから始めようということを言っていた。色んな人が一体どのようなモチベーションで働いているかわからないところがあるから、それをまず知っていくところから、と言っていて先日の倉田翠さんのワークのことを思い出していた。作品を作る現場でよく話をさせてくれた人たちのことを思い出す。それぞれの形が違うということを知り、まず凸凹を感じること。そうか、劇場や作品で体験する時にこの得体の知れない凸凹を手探りで見るという面白さがあったはずで、それは人と出会う時にも感じられることかもしれない。
KAATでは長塚さんが新しく芸術監督となり新体制が始まっている。
こうして少しずつだけど色んな場所での稽古があったり、稽古場があたったり、テキストがあったり、まだあまり試されていなかった運営のアイディアが試されたりしていく。
この流れを、も少し感じるためにも、、、

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12月の自主ソロ公演『Port A Blue』(撮影:石原新一郎)

12/11
“言葉と絵を行き来する”とノートの端っこに記した。
それは制作の途中のことだった。こないだの作品の整理をしようと作品ノートを開き、振り返りの次のページ。現在思っている次なるアイディアを書き綴っていくこと、イラストとともに。それはでもイラストというより書き出しのドローイングだ、それは一種の絵として線の完成でありながら、その線がまだ別のインスピレーションやアクションの具体性さえ引き出すくらいの熱量を内包していてほしい、そう思って書きつけるやつの一塊。
そんなことの最中に端っこに書きつけていた。そう、もう一方で僕は別のスケッチブックに絵を描き出していた。複数のことが同時にこの机の上と頭のコクピット、そして指先のペン先で起きているこの状況こそ望まれた走り方。理想の夜の川沿いの走り方。

今日は『千年とハッ』を観たし、その前はフレデリック・ロー・オルムステッド生誕200年を記念した公園に関するシンポジウムを聞きに行った。二重の”こうえん”。(かつて僕に連絡をくれたヨーロッパの振付家はkoenという名前で代々木公園にインスピレーションを受けたイベントを自国の都市で開催していた)
そしていくらかポールオースターの新刊を読み挟んでページをめくり、耳からAmerican Footballの新譜も入れていたもんだから。それらが身体の中に十分入ったような状態だったから。
観劇後もすごく、なんか独立した身体としていられたから、こうして壁をたてるようにして僕はこの目の前のことに発掘するように取り組むことが出来ている。少しだけ疲れている、今日は早く寝たい。

LOVE SONGというアイディアがあって描き出してみる。かつてJamesと制作をするにあたって、たとえば日本語話者同士では小っ恥ずかしくて扱えないロマンチックな部分を、英語に託すような形で寄りかかるようにして制作の中で寄っていこうとしていた事があった。海外に若い時に行ったりするのもそう。海外の好きなカルチャーが自分の中のある部分を育ててくれていて、それはここではあまりうまく表現したり出来ないと感じていて、息が詰まりそうになって、新鮮な呼吸をしたくて大きなリュックを背負ってチケットを買って海を越えてたどり着いた。はずなのに呼吸するのに背いっぱいで、でもそこで紡がれる言葉というのがやっぱりあって、環境が詩を生むようにしてそこで出来たものをやっぱりリュックと一緒に持ち帰っていたんだと思う。
こないだ学校で教えている留学生の子が、日本語で話すということはこれまで自分が触れたカルチャーをやっているようでこれは自分じゃないみたいだ、と逆のようなことを言っていた。僕も長くいれば、そして状況が伴えばきっとそういうようなことを言っていたはずだ。
海外から来る人は増えているが、そういったことを考える余白がなくなって隙間がなくなってルールが制限されてきてるみたいだと感じる。
なんか今はこれを書きながら熱い気持ちが流れてきているのを感じる。この時間をたくさん手に入れていこうとすること。熱いコーヒーが横にあるから、ってわけじゃなくてw
私の気分に気付き、それをあたため放出の機会を待つこと。一緒に生きること。
LOVE SONGほんの少しだけ書き進める。
これは2人のことだけど、公園を散歩するみたいなことでもある。

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ブログや日記は書き見せる対象によっても書き方が変わってくる。
というか書き方の中に内包されている。その書かれたものがどこに置かれるか、によってコミュニケーションの起こり方が変わってくる。

集まったり、閉じたり、こないだ公演のあったセンター北へ行く道すがらカニエ・ウェストの曲を聞きながら考えたこと。
その曲は都会の中における孤独を歌うような調子があったと思う。周りを遮断し自身の取り組みにのめり込んでいくことを加速させていくようなメロディーとリズム、雰囲気、とか。
その日は乾燥していて冬って感じ。
それで思ったのは、このような周りを区切って自身に向かっていくような距離を作る曲は、ヨーロッパやアメリカだとか、乾燥した地域でまず生まれえる発想(そこから別の地域絵へ派生していく)なのではということ。
人と人との距離には楽器の響きに現れるように、湿度が関係しているような気がする。湿度があれば人と人との間にも水があって、完全には切り離されない。湿度がなければ、水を発生させ人とつながる必要が出てくる。水を発することを諦めてもしまう。
今回の自身の作品の中にも湿度を頼りにしたかのようなシーンがあったと思う。これを微妙な四季、湿度の変化がある日本という場所でやることについて少し想像を巡らした。少し巡らした程度。
こんな風に考えるとずいぶん色んな人との間に振り回される一方で、これは水の問題でもあって、なんて言えたら面白いなぁと思った。
本番前にもそのことをメンバーと話して、カニエ・ウェスト『Real Friends』を流し聞いてもらった。

▶︎第8回はこちら

Aokidプロフィール


撮影:石原新一郎

東京生まれ。ブレイクダンスをルーツに持ち東京造形大学映画専攻入学後、舞台芸術やヴィジュアルアートそれぞれの領域での活動を展開。ダンス、ドローイング、映像、パフォーマンス、イベントといった様々な方法を用いて都市におけるプラットフォーム構築やアクションとしての作品やアクティビズムを実践する。近年の作品に『地球自由!』(2019/STスポット)、『どうぶつえんシリーズ』(2016~/代々木公園など)、『ストリートリバー&ビール』(2019~/渋谷)など。たくみちゃん、篠田千明、Chim↑Pom、額田大志、小暮香帆といった様々な作家との共作やWWFES(2017~)のメンバーとしての活動も。