2019年4月より開催してきました「BATIK100会」につきまして、12月開催のvol.6『SHOKU –solo version-』にて、一旦区切りとさせていただきます。4月より急な坂スタジオに足を運んでくださった方、活動を応援してくださった皆様には、心より御礼申し上げます。
それに伴い、BATIK主宰である黒田育世さんからのコメントを掲載させていただきます。12月ご来場予定の方はもちろん、これまで活動を見守ってくださった皆様に是非、ご一読いただければ幸いです。
『再演との歩みーBATIK100会からの学びー再演と歩む』(黒田育世)
「再演との歩み」
1、作品創作上演から言葉へ
恐怖ー問いー答えー言葉
作品の原風景はある日突然私を訪れます。
それを手掛かりに、なんとか作品を創り上げていく作業ほど、私にとってワクワクするものはありません。
取り憑かれたように一日中作品のことを考え続けるその日々は、辛くとも、宇宙の秘密を紐解いていける遥かな日々なのです。
だけれども、その作品を観客の皆さまにお見せすることは、強大な恐怖です。
つまり上演とは私にとって恐怖です。
作品を発表するようになってから、私はこの恐怖と渡り合うために、創作段階から「今何故、この作品を、これだけ多くの方を巻き込んで、これだけ多くの労力とお金を費やして頂いて、恐怖のもとで、観客の皆さまにお見せしなければいけないのか?」ということを、毎回自分に問い続け、その都度命からがら答えを見つけ出してきました。
毎回答え自体は違っていますが、ある一貫性を保ってもいます。
振り返ってみると、それまでの答えの集積が、その時点での次作を支えると同時に、私の舞踊活動における「言葉」にもなってきたのだと思います。
2、作品再演から受け取る生命力と情
言葉ー体ー生命力と情
舞踊における「言葉」とは言葉そのものであり目であり耳であり「体」そのものです。
大変面白いもので、初演時は、熱病にうなされたような状態で、まるで幻覚をみるように言葉のないまま作品の原風景を見つめていて、どこかしら原風景そのものに飲み込まれています。
再演の機会を持つと、前述の「答え」を「言葉」として既に経験した「体」で、又再演の時期によってはいくつもの「言葉」を既に持った「体」で、リクリエーションをし上演をすることになります。
その体で、改めて原風景を見つめてみると、未だに脈を打ち呼吸をしているその作品の生命力の、形、声、肌触り全てを受け取ることになります。これが1で触れた「ある一貫性」です。
強大な恐怖のもと、止まない自問自答に耐え、そして答えた作品は、一貫して何年経っても生きていて、当時は激しく私を飲み込んだ作品も、今度はその姿を鮮やかにしてありのまま渡してくれます。
再演に耐えうる作品は、上述のように、明らかに生命力と、加えて激情や情のようなものを持っていると感じます。
振り返ってみると、恐らくこの二つを再演活動から嗅ぎ取った段階で、私は再演の意義の具体化を考え始めました。
3、上演再演歴から事実や具体化の証明
生命力と情ー事実ー意義汎用活用
生命力も情も、明日に未来に、なればなるほど、あえて踊ってこそ現すべき姿になる筈です。
再演作品でなくとも、つまり新作でも、生命力や情を、普遍性をもって表現することは可能ですし、そしてそういった作品は再演に必ず耐えうるはずで、その時代にその言葉で表現する必然があったことに、作品の実年齢という実際の生命力の事実を蓄えて、再び踊って訴えてほしい訴えたいと願っています。
そういった作品の上演歴再演歴は「生命力も情も、綿々と続いてきたし、今ここにある」と表明できる、貴重な事例であり少なくともその時点までの事実です。
しかし、この事実も、カンパニーの活動としてのみ表明しても、一つの特色や特例に過ぎません。
振り返ってみると、ここから、私はあるいくつかの作品を、主にレパートリーワークショップという、一般参加者へ向けた形に変えて、再演の汎用性と活用法に向き合い始めました。
これが2で触れた意義の具体化の一つになりました。
4、カンパニーにとっての再演活動の意義から文化へ
意義ー文化ー文化財ーカンパニー
カンパニーダンサーにとっても、新しくカンパニーに加わるダンサーにとっても、私のこれからにとっても、たとえワークショップの形であれ再演活動は大変に意義のあることです。
新作で、どういった「答え」「言葉」を、新たに掴まんとしているのかを知ることを、演出振付の理解だとするならば、
再演で、その作品の既にある生命力と情の姿に触れ、これまでの「答え」「言葉」の集積を知った上で、新たにどの「答え」「言葉」を新作で掴まなければならなくなっているのか感じることは、理解を超える、文化の共有です。
私は、作品そのものの姿より、むしろ、その奥にあって背骨となっている文化、の上で、必然であり自然でありあるがままの姿、と、意味や効率によって分析や分断、細分化をされるべきものでない文化本来の働き、に恐らく永く執着してきました。なぜならば、それがあの時の原風景に思えてならないからです。原風景は少なくとも私にとってその時点で明らかに文化を持っています。
その世界特有の文化を、そこに住う者が、そこにしかない独特な手つきで尊重していることを、私は美しいと感じます。
文化は作品ごとに異なりますが、作品世界の文化を尊重するという姿勢は、カンパニーのれっきとした文化であって、カンパニーダンサーが全く再演を経験せずに、この文化を共有することは非常に困難です。
同時に、この文化共有のなされたカンパニーの維持がない限り、作品の維持はあり得ません。たとえ再演性の高い作品であってもです。
振り返ってみると、様々な再演を通じて、カンパニー及び作品の文化、そして尊重ということを言葉として意識し始めた段階で、舞踊作品の文化財としての可能性の探究に、そして、何より、今まさに維持の危ぶまれる「カンパニー」という形に、より一層のこだわりを持ちました。
大変長くなりまして恐縮ですが、ここまで、私が初めて作品を発表した2002年から、ある節目であるおよそ2012年前後までの、再演に当てての歩みに焦点を絞って振り返りました。
その後新作を創りながらも、上記に継続的に取り組むにあたり、セゾン文化財団、フェスティバルトーキョー、スタジオアーキタンツの貴重なお力を頂戴し、様々な形で努力を続けることができました。
そして、今2019年度に急な坂スタジオから『BATIK100会』のご支援を頂きました。『BATIK100会』の詳細につきまして、是非、急な坂ホームページでご覧頂きご確認下さいませ。
ここからは、この『BATIK100会』で私が何を掴み、何につなげていく光を見たのかを、上記の1〜4とこの会で取り組んだ具体的な再演作品を実例として照合しながら、お伝えしたいと思っております。
カンパニーダンサーが何をどのようにこの会で掴みここからどう進んで行こうとしているかについては、追ってまとめていきたいと考えております。
私にとって、この会での最大の学びは、「再演を沢山したこと」ではなく「再演がシリーズ化された」ことによります。
つまり、再演の上演に止まらず、再演が文脈化されたということだと思うのです。
前章1の「言葉」を駆使し、前章3の「活用法」を駆使し、再演することはできても、これまで、文脈化することは叶いませんでした。
恐らく、文脈化を舞踊分野は得意としないように思います。言葉との距離感や上演回数の限界や抽象度の重要性による事かもしれませんし、ややもすると、頭でっかちに思えてしまうのかもしれません。
以前より感じている事で、当然ながら舞踊分野は「踊る」を第一義、そして一番純粋なものとしがちです。そして常に憧れているように思います。
しかし、「踊る」は、作品の中で「踊る」のままいられる時もあれば、「踊りを見せる」「踊りで見せる」に変容することもあります。
後者の2つは、少なくとも私にとって決して「踊る」より不純なわけではありません。
この3つは硬い壁で仕切られたものではなく、3つの間に柔らかいカーテンが垂れていて風が吹けば如何様にも領域の変わるようなものだと思っています。
踊りを作品上のメッセージにメタモルフォーゼさせる、「踊りで見せる」というやり方は、間違いなく文脈です。
当然の事かもしれませんが、舞踊家は創作で文脈化をしていない訳ではないのです。
セゾン文化財団とオンケンセン氏によるプロジェクト『アーカイブの手法』というプロジェクトで、作家の潜勢力がどのように働いたのかをアーカイブし、アーカイブボックスという形にする試みがありました。
『落ち合っている』という作品創作の過程で、何がどのように文脈化され、ダンサーにどういった文化の共有がなされたのか、をもう一度凝視して出来上がったのが、BATIK100会で展示の機会を得た私のアーカイブボックスです。この制作は『落ち合っている』という作品を踊りでない別の素材であたかも再度産むような作業でした。そこでやっとその作品の潜勢力に触れられた記憶があります。
ボックス作成の際に、使い方や見方の種類を無限に近づけたいと願いました。実際にご覧いただけないことが悔やまれますが、層状に組み立て、狭間に具体例を入れ、それらの組み合わせを自在にしたことで、なんとか種類の増殖を図った形状です。
振り返って考えてみると、BATIK100会は、私にとって、再演活動のアーカイブボックスだったのだと思います。
BATIK100会は作品を特定せずに、しかし、アーカイブボックスと全く同じように、
1、再演作品群を層状に積み上げ、
2、その抜粋を自在に組み立て、
3、同作品を複数キャストで踊り分けて肌触りの種類を増殖し、
4、展示や連続性で再演の展開を拡げ、
5、再演作品でしかできない具体例としての上映を試み、
6、新しく加わったダンサーも含めて大変な頻度で文化の共有がなされ、
7、そして、それぞれの作品で私にどういう潜勢力が働いたのかを改めて思い出させてくれました。
ここで、1〜6がどの実施作品によって実現され、私にとってどういった力になったのかを振り返りたいと思います。
1、実施された全作品で実現されました。実施作品の初演年に大変な幅があり、時代ごとに私が持った前章1の「言葉」4の「文化」の変遷の上演経験になりました。
2、4月に実施されたソロレパートリーで実現されました。前章3の「活用法」の具体例になりました。
3、特に、6月に実施された『春の祭典ソロバージョン』と7月に実施された『モニカモニカ』で実現されました。ここでは前章3の「生命力と激情」の「事実」と4の「カンパニー」へのこだわりを改めて痛感しました。
上演実施当時に記載の機会を頂いた文章も是非ご確認下さいませ。
4、8月に実施された『春の祭典群舞バージョン』とその際の展示、特例になりますが地上波+における『SHOKU middle version』と12月実施の『SHOKU solo version』の連携によって実現されます。
これに関しては、まだ振り返ることはできませんが、前章1の「答え」2の「生命力と情」4の「意義」「文化」「文化財」「カンパニー」をある一つのまとまった形で受け取るような予感がします。
5、11月に実施された上映会で実現されました。今後の取り組みで、映像素材を前章の4の「文化財」として展開できるよう努力したいと思っております。
6、実施された全作品によって実現されました。前章の3以外全て駆け足ながらカンパニーダンサーに伝えることのできる大変貴重な時間となりました。
7、これにつきましては、今後作品を特定して、アーカイブボックスのような制作をし、思い出したものに触れられるように努め、改めてお伝えできる努力をしたいと思っております。
以上1〜7を経て、改めて再演に対して私の中にどんな情熱があるのかを鮮やかに知ることになりました。
皆様に新たな展開をご覧頂けるよう粘り強く準備を進めていきたいと思っております。
「再演と歩む」
作品は100年先か勢いもっともっと先そしてもっともっと前に向けて射られる光だと思います。
作品が舞台で初日を迎えるまで、稽古場で作家とダンサーは、日常には現れない特別な時間を異常な密度で心ギリギリまで過ごすことになります。
稽古とはこれを執拗に繰り返す作業です。歪んだり伸びたり縮んだりする時間と心の限界のリピートです。
この時点でダンサー達は何百年も生きたかもう一度子供に戻ったか何度も死んだかのような体験をしています。
作品が稽古場で蓋を開けられる前にも、更に作家だけの時間があるはずです。私の場合ですが、この時間は稽古場よりも更に歪んだ異様な状態だと思います。
ですから、100年先100年前をということが、先見の明や歴史的視点のように優れたものだと言いたい訳ではなく、これはむしろもう少し気味の悪い創作現場の特性についての物語です。
そういった非・常態の時間を過ごして命からがら初演を迎えた作品が、いつふと時代を照らすのか、に、私は心底の興味を持ってきました。
ささやかながらすでに照らしたように思える作品もあればそうでない作品もあります。
そして、時代という言葉すらまるで嘘のように思える世の中の時間の加速に、私の気味の悪い時間を経た作品はどう轢かれるのか又は否か、見て確かめたいです。
それに「あんなに辛い時間をカンパニーと費やしたのに一度しか上演できないなんて腹の虫がおさまらない」という大変分かり易い気持ちも大いにあります。
以上、再演へのとても偏った個人的で幼く正直な気持ちも白状し、私はこれからも再演に執着し作品と大切に歩き続けます。
BATIK100会を実現下さった急な坂スタジオに心より深く感謝申し上げます。
BATIK100会は、私とカンパニーの今後へ向けての奇跡的な重要度を持つ会となりました。
再び、関わって下さった皆様にひたすらの感謝を込めまして。黒田育世より
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▶連続パフォーマンス企画「BATIK100会」
【次回開催】vol.6『SHOKU –solo version-』
日程:2019年12月26日(木)〜29日(金)