特別連載スタート!北尾亘のコラム
北尾亘が、言葉を紡ぐ!
圧倒的な身体能力で、舞台上で観客の目をひきつける北尾亘。
雄弁な身体からは、どのような言葉が紡がれるのでしょうか?
つくりての日々の発見・考え・作品の裏側などなど、北尾の素直な言葉を月1回の連載にて、お届けします。
舞台上とはまた違った魅力をお楽しみください!
北尾亘のコラム・番外編
ドキュントメント「となり街の知らない踊り子」のシドニー公演が無事に終了しました。
翌日には現地のアーティスト(演出家、俳優、ダンサーなど)とのトークイベントを終えて、
北尾亘が感じたこと・考えたことを聞いてみました。
かちっとしたインタビューではなく、ホテルのベランダで夜風にあたりながら、
のんびりお話したことを、「北尾亘のコラム・番外編」として、シドニー滞在時の写真とともにお届けします。
日時:2017年3月24日22時頃
場所:ホテルのベランダにて
聞き手:加藤弓奈(急な坂スタジオ ディレクター)
-まずは、シドニーでの公演を終えてみていかがでしたか?率直な感想を聞かせてください。
北尾:普段は禁句にしているのですが、「楽しかった」です。舞台にいる間中、ずっと。
「Enjoy! Let’s play!」という気持ちで、飛び込んでいきました。
-これまでにSTスポット、YCC、あうるすぽっとのホワイエ、と公演を重ねてきましたが、
今回の会場・場所はどうでしたか?
北尾:好奇心が沸きました。作品や観客にとって、とてもポジティヴな空間に思えました。
−北尾さんにとって「劇場」ってどんな場所ですか?
北尾:「遊び場」ですね。「アスレチック」とか。使い切りたいと、思っている場所です。
−日本の観客との反応の違いは感じましたか?
北尾:全然違いました。日本よりもWelcomeだし、とても懐が深い感じがしました。客席が潤っている、待ってくれている、というイメージを受けました。アーチ型の客席が更にその感覚をより強くしたのかもしれません。
-ドキュントメントでの、山本さんとのクリエーションはどんな感じですか?
北尾:「演出家と出演者」という別々の役割という関係ではなく「共犯関係」という感じです。この作品を経て、自分自身のクリエーションにも変化があって、振付家・演出家からダンサーへのトップダウンでなく、フラットな関係でクリエーションするようになってきました。
-初演からこれまでの4回の公演で同じことや・違うことなど、教えてもらえますか?
北尾:初演・再演・再再演時には、確固して「変わらない」ことがありましたたが、今回は違いました。初演時にテキストに大きく共感して、その時々の社会とのつながりを感じてきました。例えば、ISの事件を経た後では「覆面をして舞台にたつことが許されるのか?」と感じた自分がいました。でも今回は、ようやく作品自体が「となり街」=フィクションだということに納得がいくようになりました。危険だと感じていたことが、作品=フィクションとして、馴染んできた感じです。
−北尾さん自身の変化に加えて、今回の公演の観客の様子はどうでしたか?
北尾:再演の後、テロリスト(図書館での立てこもり事件のシーン)の咀嚼の仕方が変わりました。観客が「当事者なのか?」「他者(フィクション)なのか?」どのような気持ちでそのシーンを見ているのかで、作品のラストの感じ方も大きく変化しました。
北尾:実は、初演からずっと「Music Start!」の台詞を言うのが、苦痛だったんです。(ラストのダンスシーンの開始の合図)でも、シドニーでは違いました。生き返る感じがしました。ラストに向かって終わるのではなく、再生していく感じでした。初演のラストで起き上がれなくて、それは苦痛だったんですけど、今回はしっかり立てたんです。それは、生き返った、ということだと思います。
−今回もラストのダンスシーンへの反響がとても大きかったですが、自分にとっては、どんなシーンですか?
北尾:La Merがかかっている間中、「ダンサーとして舞台上にいるな!」と強く思っています。「めぐちゃん」やすべてのキャストのままでそこにいたいと。
−そういった変化も含めて、再演を重ねていくことをどう感じていますか?
北尾:貴重だし、確固たる自信になっています。
−少し、作品の話からは離れますが、最近の自分の活動や、コンテンポラリーダンス業界全体に対して考えていること・感じていることはありますか?
北尾:今年度、ダン活(※地域創造・公共ホール現代ダンス活性化事業)やカンパニーのツアー公演を経て、地域のダンスシーンの潤いを感じました。同時に、東京のダンスシーンの消費や摩耗を強く感じました。「何のためのクリエーションなのか?」という感覚を強く持っていたいです。これまでずっと、演劇に負けたくないという思いから、年に2回の単独公演をやってきました。誰の為に、何をつくりたいのか?を、徹底的にやってきましたし、蓄積されてきた自負があります。どんな状況であれ、振付家はフルスケールの作品をつくった方がいいと思います。
−つくる場所である急な坂スタジオは、北尾さんにとって、どんな場所ですか?
北尾:実は学生の頃に数回使ったことがあったのですが、じっくり場所と関わったのは「RE/PLAY(DANCE Edit.)」からです。その当時の自分の状況とも相まって、引きこもれる場所・通いたい場所ですね。
−稽古場に望んでいることは、どんなことですか?
北尾:ゆとり、余白ですね。それと、交流の多さ。クリエーションの場だけでなく、ラボという感覚。実験できる場所であって欲しいです。
−今後の目標は?
北尾:日本のダンスシーンを動かしたいですね。そのための立ち居振る舞いをきちんとしていきたいです。
−では、最後に一言。
北尾:幸せなカーテンコールでした。
*****
わずか2回の公演でしたが、どちらも割れんばかりの拍手と「ブラヴォー」の声が鳴り止みませんでした。
やりきった達成感と、今後も変化し公演を重ねていくための第一歩だと感じている北尾さんとの話は、
なかなか尽きませんでした。
この後は山本さんも交えて話し続け、シドニー滞在最後の夜が更けて行きました。
第10回 『産まれた地を踏みしめる』
唐突に、「春はまだでしょうか?」今年の関東は雪が少ないですね。寒さにはめっぽう弱いゆえ、年々冬場に着込む洋服が増えています。
何だか最近はもうちょっとくらいなら冷え込んでも耐えられそうな心持ちではありますが、やっぱり春が恋しいです。そして夏はもっともっと恋しいのです。タンクトップ短パンで街を歩ける30歳でいよう。
幸いにも大雪に見舞われることもなく、『Baobab Repertoire Showcase 2017』は無事に閉幕致しました。急な坂にめげることなく足をお運びいただいた皆さまに厚く御礼申し上げます。
初めて大々的な再演に臨むことが出来たこの機会は非常に意義深い日々でした。確実に変化した肉体・思考に抗わず、その上で初演を丁寧になぞる作業は新たな発見の連続でした。この機会が次の繋がりを生み、Baobabがいずれ海を渡れる日が来る事を願って、精進いたします。
これを記している今は、兵庫県の川西市という所に来ています。
住んでもいないのに[兵庫県生まれ]を公言している僕が産声を上げた地です。母方の田舎があるこの場所は、幼い頃よく里帰りで訪れていました。ご縁が巡ってこの地で踊れることになり、十数年振りに帰ってきました。
関西は良いです、改めて。人と人がコミュニケーションを取りたくてしょうがないという疼きが感じられる気がします。
幼少の頃、田舎に帰ると関西弁に豹変する両親を前に、僕はひとりぼっちされたようでとても嫌でした。関西弁ってとても暴力的で高圧的。「お母さん大阪弁使わないで」と懇願してもそれは叶いませんでした。開き直って中学に進学する頃から関西弁を勉強しました。「○○は関西弁でなんてイントネーション?」と英単語を覚えるように必死になって、今ではバイリンガルです。京都公演でのグループミーティングでは関西で活動する演出家さんよりも露骨な関西弁で笑われた程にです。
何となく覚えている感覚。父方の田舎に帰省して数泊してから、母方の親戚に会いに行っていた当時。この川西に向かう阪急電車の中で、幼心に「何だろうこの物悲しさは?」といつも感じていたのを覚えています。(当時は“物悲しさ”なんて表現ではなかったのですが) 父方の家はもう少し都心部、加えて“やかましい”に近い活発な家族でした。そんな場所から阪急能勢電に揺られて向かう川西のベッドタウンは、多感な時期の僕にとっては静かすぎて余計に不安に思えたんだと思います。
改めて訪れてみるこの場所には、何だか温もりと安らぎの共存を感じています。地によって血が騒いだりしているのでしょうか?
喪失。いつからか川西に戻る頻度は減って、続いて父方の田舎も無くなりました。生まれてこのかたマンションにしか暮らしたことのない僕にとっては、どちらの家も[ホーム]と思える場所だったことは間違いありません。別に今の住まいに何の問題もないのですが、どこかで陸の孤島に取り残されたような感覚がふとよぎることがあります。
活気溢れる賑わいがあったあの場所も、安らぎ溢れる地なのだとようやく気付けた川西のあの家も、時間の流れの中で、確かにそこにあった営みが過去になってしまいました。関西弁が喋れなくて孤独だったあの時の肌感覚に近いような気がしてならないです。
ノスタルジーですね。
こういった思いが僕の創る作品には強く反映される瞬間があります。
また“新たに生み出す時間”を持ちたくなってきました。
作品を通してもう一度、過去に、記憶に、空間の感触に、出会い直したい気分です。
来月はもう少しあっけらかんとした事を綴ると思います。
明々後日の公演には90歳を越えた母方の祖父母が駆けつけてくれます。
とてもハッピーな気分です。
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北尾亘
第9回 『夢の肌感覚』
新たな年が始りました。本年もどうぞよろしくお願い致します。
1月が半分ぐらい過ぎると、今年初の対面の際に「明けましておめでとうございます、ですかね?」という機会が増えますね。いつもより少しぎこちなくなったり、逆にくだけて会話が進む感じ、嫌いじゃないです。
本年も早々にではございますが・・・兎にも角にも観ていただきたい舞台がございます。私が主宰するBaobab『レパートリーショーケース』です。
いよいよ海外展望を夢見るほどになりました。絶大なサポートをいただくホーム、ここ“急な坂スタジオホール”にて3作品を2つのプログラムで一挙上演致します。
過去20作を超える作品群から再演を待ち望む声が多かった2作品、加えて私のソロ最新作。2017年Baobab主宰公演はこの一本のみですので、この機会に是非急な坂スタジオに足を運んでみて下さい。
「この場所にはいつもクリエイティブな風が吹く」
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“TPAM in 横浜2017″参加
【Baobab Repertoire Showcase 2017】
振付・構成・演出 : 北尾亘
2017年 2月16日(木)~19日(日) @急な坂スタジオ ホール
『TERAMACHI』50min. [A]
京都は”寺町通り”に着想を得て、日本特有の身体性や美意識にフォーカス。
Baobabが唱え続ける「土着的身体」が織り交ざった独特のコレオグラフィーが、
群舞の熱を帯びて凛としながら力強く地を揺らす。
2014年の初演時には大盛況をいただいたコンセプチュアルな秀作が、蘇る。
出演:北尾亘 米田沙織 傳川光留 / 岡本優(TABATHA) 中川絢音(水中めがね∞) 中村駿
楽曲提供:岡田太郎
『笑う額縁 -Laughing Frame-』30min. [B]
数々のフェスティバルで繰り返し上演し続けた真骨頂的作品。
ダンスを“絵画”に置き換え、“額縁”という枠組みを飛び越えようと勇むダンサーの姿を描く。
笑いながらそれをのみ込む“ダンスの枠組み”に対し、時にアンチテーゼをはらみながら奔走するキッチュな側面を兼ね備える。
2012年吉祥寺シアターでのフェスティバルで衝撃を残した今作。
日本各地の野外フェスティバルを沸かせ続け待望の屋根付き上演。
出演:北尾亘 米田沙織 目澤芙裕子 / 岡本優(TABATHA)
『2020』20min. [B]
舞台芸術の世界を駆け抜けるその肉体には、多くの身体性と理論が渦巻く。
様々な影響をタイムリーに受け止めてしまう“多動性”と呼ぶべき身体性を逆手にとり、あらゆる「かりそめ」をユニフォームにして繰り出されるメタモルフォーゼ。
痛快にして痛切、北尾渾身の新作ソロ。
「東京オリンピックの先にはどんな世界が待っているのだろう」
出演:北尾亘
日時やご予約など詳細はこちら
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3作品同時のクリエーションはBaobabとして初めての経験でして、身体も頭もグニャグニャになるまで酷使し邁進しております。どうぞこの新たな試みにお立ち会いいただきたいです。(各作品については来月公演前に触れたいと思います。)
今月はそんな現実的な身体性から少し散歩した、妙な話をしてみます。
『夢の肌感覚』
こんな夢をみた。初夢でもなんでもなく、とある楽しい宴のあとの話。
その日は久々にお会いした方と話が盛り上がり少々呑み過ぎた。
まんまと終電を逃し最寄り何駅か手前までしか電車が無く、降り立ったロータリーにはタクシー待ち長蛇の列。上機嫌のその日は酔い覚ましに自宅まで歩いてみることにした。
夢なのにやけに鮮明に覚えているその道のり。そこには2つの要因があると推測する。
①以前も同じように終電を逃し歩こうと試みるも4分の1程度で挫折した。
②道すがらのとある交差点。以前深夜に車で走行中に、前方不注意で信号待ちの停車タクシーに時速1㌔で接触した。
2つのトラウマがこの夢を「実体験」のように感じさせたのかもしれない。
この日は真冬なのに温かい日で、足取りも割と軽やかでズンズン進んで行った。Google先生によれば5㌔ほどの道のり。ただまあ1日稽古した(これは事実)体の疲労を考えると、容易い道のりではなかった。
途中、目に見えるものを言葉にして安直なラップみたいなものを口ずさむ。(確かこれは実際に誰かから勧められたランニングの時の遊び)それが楽しくて足が進む、右モモの違和感を除いては。
気付けば残り1㌔ちょっとまで来ていた。ご褒美にラーメンをすすって気合いを入れ直し再出発。
もう随分と見慣れた景色にさしかかった頃、右モモの違和感を払拭するほどに猛烈な尿意と便意が僕を襲っていた。長い道のりの中で一番早い歩き方を模索していた点はダンサーとして誇らしい。それは両足を付け根付近から大きく開き、若干のバウンドを利用して弾ませるように次の足を前に引き出していた。これが両の“意”にダイレクトにアプローチしたのだろう。
「尿はわかる。何とか出来るかもしれないが、便はまずい。」夢の中でもその感覚は鮮明だった。ここから少し夢は飛ぶ。
次の瞬間、僕は岐路に立っていた。尿意は消えており、左手にはセブンイレブン右手にローソン。どちらも数百メートル先でコンビニの建物自体をくねらせながら、口を開けて笑いながらこちらを凝視している。そのくねらせ方は恐らく僕の腸内の擬態化。僕はもはや両手を空にかざしながら踊っていた。
すると空が柔らかく夕日色に変わり、世界がスローモーションになっていく。どうやら夢の僕はやり遂げた。自宅など夢の先、コンビニにすら辿り着けずにやり遂げた。その生暖かく柔らかな感触が鮮明すぎて、もう一度その瞬間だけは同じ夢をみたい。
隙間という隙間に潜り込みながらシリコンのように僕の尻を増長させてゆく。少しだけ外国人のようにつき上がったお尻体験をする。それを左右に揺らしながら歩く感覚と言ったらない。「レゲエダンスの腰やお尻周りはこのブレがあって初めて成立するのか!」なんて感動すら覚え、その頃には左右のコンビニおばけ達は色とりどりの羽や装飾品を身に付け、僕を祝福するかのように共に踊っていた。優しい夕日色の空には大輪の花火が打ち上がる。さながらディズニーアニメのハッピーエンドのよう。
しかしシリコンはシリコン。やがてその断片が冷たくなりながら右のモモ裏をつたっていく。これは我が子との別れのような感覚だった。笑い泣きするほどの興奮は、頬をつたううち冷たい涙に変わった。徐々に右モモ全体を冷たく包み込んでいく、我が子の断片。
右モモは悲しみのあまりきしみ出す。体が泣いている。冷たくなった我が子に抱かれながら。身体の一部が、音をたてて泣いている。泣いている。
ここで突然に目が覚める。右モモは確かに泣いている、きしむ感覚がある。
まさか・・・の予感に背筋が凍りながらもすぐさま周囲を確かめる。いつもと浸かっている布団、枕、寝室、ぐしゃっと脱ぎ捨てられた上着、アイスノン、、アイスノン!? 記憶にはないが確かにここにある。右モモがやけに冷たい感覚がこのとき遅れてやってきた。
「嗚呼、酔っぱらいながらも身体を気づかったんだな。」
レゲエダンサーの尻も、コンビニおばけも、柔らかな夕日色の空も、シリコンの我が子の断片も。全部ぜんぶ鮮明なんだけどなあ。
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北尾亘
第8回 『お一人様ライフ』
とうとう今年が終わってしまう。
あっという間に通り過ぎて行ってしまう12月を前に、毎日を必死に泳ぎ続け気付けば年末です。どうもこの12月ってやつは毎年慌ただしく「一年の中で一番短いのでは?」と思えてしまうほどです。
兎にも角にも、、、観劇の勧めと共に先月のコラムで告知致しました、ドキュントメント『となり街の知らない踊り子』。作品はまたムクムクと成長し、確かな手応えと共に無事全ステージを終えました。
ご来場いただいた皆さま、誠にありがとうございました。
その後も、三重→兵庫→八丈島と(個人的にですが)様々な地にお仕事で出向き、今は東京の喧噪に紛れられる事が珍しくしっくり来ている年末のとある日です。ふー。
さて、今月はようやく舞台から離れたことを綴ります。
綴りたい事があります。
ありました。
月の上旬頃までは。
あまりにも目まぐるしく通り過ぎてゆく12月の中で、そのことを忘れてしまいました。
継続とは不思議です。この連載コラムが始った頃は一言一句まで振り絞るように記していたのに、“忘れた”という事実をこうも簡単に言えるまでになりました。
忘年ですよ。忘年というやつにのまれてしまいましょう。
最近流行の『お一人様ライフ』というものにフォーカスを当ててみましょう。
この一年で大きく変化したことは間違いなく“食”である。
自分を甘やかし「疲れているから」とか「頑張ったご褒美」みたいに言い訳をし、隙間を見つけては一人の外食を楽しむようになった。
とはいえ根はケチな精神なので、一人の食事に多くのお金は裂けない。これまでの満足指数は某牛丼チェーン松◯や、中華チェーン□高屋で十分満たされていた。
今年は違う。な◯卯・幸◯苑・ガ◯ト etc.
と広がりをみせている。
何が変化したのかとお疑いだろうか?変化したのは嗜み方である。
各安のチェーン店を脱してはいない。それほどに舌も所得も急激な上昇傾向にはないし、あくまで僕はケチだ。ただこれまでのように近くにあった店で作業のように済ます食事の時間は減った。たかがチェーン店でも「うんうん」なんてつぶやきながら一人で食事を取ることはこれまで無かった。
それは恐らく精神的な変化だと思われる。
人と一緒に時間を過ごすことが好きな性分は、ここ最近徐々に一人の時間や空間を欲し出しているように感じている。奇しくも世は「お一人様」という言葉が一般的になっている。(“奇しく”もでもなんでもなく、ただ自分が流されているだけだろうか)
旅先では否が応でも集団生活だ。そんな期間を過ごした後には必ず個人の時間を欲するようになった。或いは時間が空けば沢山の人と会うキャンペーンを勝手に開催するのだが、今年はそれも少ない傾向に。
なぜこのような変化があった考察は今は置いておこう。とにかくこの時間とがなかなか楽しいというか、「味わい深い」と表現出来る現在の感覚を文字に残しておきたい。こんなことを綴っているのもとある中華料理のチェーン店だ。
とはいえ小心者の僕は行動範囲が狭い。
飯・買い物・映画・カラオケ・呑み。この程度がお一人様ライフ。
ただ今年はとうとう「一人焼き肉」のデビューも果たした。
ひとつ仕事の峠を越えた自分は地方から帰ってきたその足で、キャリーバックをガラガラ引きながら最寄り駅近くの焼き肉屋に入る。安い安い店だ。
夕方だのに店内はなかなか込み始めていて、一人の自分はなぜかそこしか空いていない8名は収容出来る奥の座敷席に通された。どれだけ混雑しようが姿は見えない座敷空間に興奮し、僕はダラダラと3時間に渡って食べ呑み続けていた。途中疲労からちょっとうたた寝してたんじゃないかってくらいに。この一連の話にオチも何も無いのが申し訳ないくらいだが、それはそれはすこぶる楽しい時間だった。
加えて今年は、2年前ぐらいかストレス発散になっている一人カラオケでとうとう夜中のフリータイムを横断してしまった。朝までの時間が惜しいほどに楽しい時間。ちなみにここまでくると、知人からよく聞かれる「受付や他の客の目は恥ずかしくないの?」という質問にも堂々とお勧めを返したい。
「多くの人はカラオケの楽しみ方を知らない。下手な歌を聞く必要も無いし、場を盛り上げようという気遣いもいらない。だからむしろカラオケを真に楽しむ者としてある種の威厳すらも持って受付に進むのだよ」と。
綴っていて自分が気持ち悪くなってきました。
とはいえ街が浮き足立つ12月から年始にかけては、その喧噪に紛れて個人の時間を嗜むのも意外と悪くないんじゃないかと思います。そう思えるようになってきました。
とにかく舞台から離れようと思って綴った今月。この時間も非常に楽しかったです。これからネギラーメンを食べます。もちろん「お一人様」です。
皆さま、良いお年を。
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北尾亘
第7回 『観劇のススメ 〜ラブレター〜』
兎にも角にも観ていただきたい公演があります。
早々に告知ですが、急な坂スタジオサポートアーティスト同士のクリエーション作品ですのでご注目いただきたい。
山本卓卓(範宙遊泳)とは出会ってかれこれ10年近い仲で、過去にいくつもの作品を共にしました。
気鋭の劇作家・演出家として活躍する彼が、一人の人間に焦点をあて掘り下げるソロプロジェクト。それが「ドキュントメント」(←読み方に注意!)。
2015年5月。濃密なクリエーションを経て共に産み落とした、演劇とダンスの合いの子『となり街の知らない踊り子』が、
この度フェスティバル/トーキョーにて再再演を迎えます。東京での上演はしばらく(もう?)無いんじゃないかと思いますので、是非ともご体感いただきたいです。
“DANCE×Scrum!!!“で縁深いあうるすぽっとホワイエにて、100分ノンストップ踊りっぱなし喋りっぱなしの旅に出ます。
☆☆☆
Festival/Tokyo16 まちなかパフォーマンスシリーズ
ドキュントメント『となり街の知らない踊り子』
脚本・振付・演出:山本卓卓(範宙遊泳) 出演:北尾亘(Baobab)
2016年12月1日(木)〜4日(日) @あうるすぽっと ホワイエ
1日(木) 19:30
2日(金) 15:00
3日(土) 19:30
4日(日) 17:00 全4ステージ
公演詳細・チケット購入はコチラから。
http://www.festival-tokyo.jp/16/program/docuntment/
☆☆☆
この流れで今月は、「観劇」するという事に触れてみようと思います。
唐突ですが僕はなかなかの舞台芸術ファンです。趣味の少ない僕にとってそれは、もはや趣味という範疇に含まれる程にだと思います。(あまりイメージにないかもしれませんが)
「今はインプットのタイミングだ。」と時間を取れる時、舞台が盛んなシーズンに当たれば、それはそれは観劇に奔走します。
時は芸術の秋。この10月末からの3週間ほど、東京に戻り少しばかり余裕が出来たので、稽古やイベント本番などの合間をぬって色々な劇場を巡りました。
舞台をやっている身としてのジレンマ。それは自らの創作や稽古に時間をあてている最中は、総じて多くの観劇機会を逃してしまうという事です。「同じ舞台のフィールドにいるのにー!」稽古場にこもっている時はそんな歯がゆい心持ち。
例えるならば、、、【すぐ近くの最寄り駅前で盛大なお祭りが行われている最中に閑古鳥が鳴いている店内で黙々と翌日以降の営業に向けた調理の仕込みを行うバイト君】といったところでしょうか。 (わかりづらいですかね。)
しばらくのあいだツアーや客演、地方滞在が重なり観劇が叶わぬ時期を経て僕の“観劇欲“は爆発しました。
・プロジェクト大山
・イデビアンクルー
・キンキーブーツ
・x/groove space
・東京ゲゲゲイ
・メトロポリス
・阿佐ヶ谷スパイダース
・うたの木
・ロロ
他にも知人のダンス公演やパフォーマンスイベントも。そしてどうしても予定が合わず泣く泣く見逃したものも多々あります。
こうして見ると、なかなか観劇の幅が広いですね。我ながらあっぱれ。
僕の“観劇欲”。その多くはダンスと演劇に向けたものです。基本的には興味を持ったり、前々から気になっていたカンパニーや劇団の公演を観に行きます。
皆さんはどんな時に観劇するのでしょう?
そしてもう一つの視点は、「バランス感覚」です。
僕は観劇する事の目的の1つに、リフレッシュとかデトックスみたいな表現とは違った意味での「バランス感覚を取り戻す」という感触を持って劇場に足を踏み入れます。
ダンスにも演劇にも股がって活動を続ける根底には「欲しがりと飽き症」な精神が由来していて、加えて「両者がそれぞれに手出しできない領域を掘り進めて見つめたい」という欲望が影響しているんだと思っています。
ダンスを見つめ続けている最中には、意外と演劇を観たくなるんです。
「言葉には叶わないー」とか、「あの俳優さんの居様はダンスでは到底描けないー」とか。ぐうの音も出ない体験を求めたりしています。
その距離が遠ければ遠いほど、自分の現在地を冷静に見つめられたり。身体に対する新鮮みや客観性を取り戻せたりして爽快です。
これが「バランス感覚を取り戻す」瞬間だったりしている。
こういった体験は舞台芸術の内側の人間だからなのでしょうか?
どうなんですかね。劇場で僕を見つけた時はぜひ声をかけて教えていただきたいです。
演劇にどっぷり浸かっている時は、目の前で起きる身体のスパークにただただ感覚をゆだねます。自分でもビックリするほどに無垢な感覚に戻れたりするんです。複雑な感情や思考は遠ざかって、「涙がこぼれる」「笑う」「うっとりする」そしてたまには「寝る」。
これはもしかしたら普通に働いている方にも共通する感覚かもしれませんね。数多の情報が渦巻くなか、劇場に足を踏み入れたその時間だけは目の前で起きることにだけ意識を向ける。(ふんわりと個人的なダンス観劇のオススメを注ぎ込んでおりますよ〜)
ダンスにはときどき観る者の体の真ん中あたりを一瞬にして鋭く貫く“光”のようなものが宿ります。
観る者としてはその体験を求め、創り手のときはその瞬間をいかに多く創り出せるかを模索しているように思います。
でもこの“ダンスと演劇”のバランスがどちらか1つに偏り過ぎるとき、気付けばすごく息苦しくなっていきます。「嗚呼、自分は心底飽き症なんだな」って嫌になりながら、大抵その息苦しさを払拭してくれるのがもう一方の表現だったりするんです。
もちろん映画鑑賞や美術鑑賞も嗜みますが、強く心揺さぶられるのはこの2つなんです。
「嗚呼、自分は心底 “ダンスと演劇” に恋しているんだな。」
つらつらと綴ってみると恥ずかしいぐらいのラブレターになりました。
愛の結晶はぜひ、劇場に足を運んでご体感ください。 舞台っていいっすよ。
*****
北尾亘
第6回 『実感を伴う生活』
冬の訪れと過ぎ去る秋への執着。
こんなにも季節や時間の流れに置き去りにされるのはさすがに久しぶりです。
夏の終わりをようやく受け入れられたところだというのに。
と、時節柄でコラムがスタートすることが増えました。
これは来月へ向けた反省にしようと思います。
この1ヶ月は、Baobab 第10回本公演ツアー『靴屑の塔』の地方公演に尽くした日々でした。
ほとんどの時間を東京ではない各地で過ごし、少しばかりタイムトラベルをしていたような気分です。
北九州・京都・北海道(別件にて)・仙台、その土地ごとに流れる時間と空気に身を委ねていると、不思議と自らの所在が宙に浮かび上がるような感覚がありました。
気付けば「東京に帰りたくない!」が口癖のようになりながら、ツアーを終え改めてその時間や作品を見つめ直した時に、また少し自分の輪郭がはっきりしたように思います。
今月も少し真面目な内容になってしまいそうです。
【ものを通して実感する“喪失”】
「せっかくアーカイブ出来ない表現をしているのだから~」誰かが踊りについてそう言った。
そう。踊り、或いはダンスは決してアーカイブ出来ない表現。ふと考えさせられた。
そういったものを生業としている自分は、目で見て・耳で聞いて・全身で味わって「実感」しないと色々なことに納得出来ない人間らしい。
この一ヶ月でより鮮明に感じたこと。
その単位は大小様々で、、、
「この店のサンドイッチはハーフサイズでも十二分に腹が膨れるよ」と言われても、「サンドイッチで本当にこの空腹を埋められるだろうか?足りなかった時のために、えっと、よし!あのコンビニでアメリカンドックでも補填しよう」などと、なかなか人の言うことを信用しない時がある。結果、満腹で満足しながら小さな自暴自棄を繰り返す。
ツアーで幾度も繰り返される場当たりの中、、
ダンサー「このポジションだとこの先の振りがちょっと厳しいのですが、」
北尾 「えっ!?この振りの角度を若干振れば何とかならない?」
ダンサー「多分あまり変わらないです」
北尾 「ちょっと待って!」自ら舞台上へ行き実演して、「あ、ホントだごめんね。」
こんな事がざらにある。平静を装いつつ隠しきれていないであろう自暴自棄。
年々過敏になるこの感覚は、総じて作品創作に向かう姿勢と対になっているようだ。
靴をモチーフに生み出された新作。
具体的な“もの”をモチーフとして選択したのは初めてだと思う。
その中には、靴を起点としながら「失ったもの(或いはこれから失うもの)への追憶」を込めていた。
最近分かってきたことだが、近年の作品には「失う」という巨大なテーマが寄りかかっている気がする。
これは踊る行為にも繋がっていて、ダンサーはその一瞬一瞬を身体で生み出しては手放していく連続だと感じる。その発端は都度異なるが、踊る行為そのものが「生み出す」行為と「失っていく」行為をとてつもない早さで繰り返している。
その一瞬一瞬をなんとかして観客に持ち帰ってもらいたい。その起点として選択したモチーフが“靴”だった。そこには履き主と歩んだ軌跡(足跡)が浮かび上がるから。
舞台美術には実際に過去履きつぶした靴たちを組み込み、共に歩んだ事実を目撃しながら踊る行為に勤しんだ。
ツアー公演最終地、仙台。出演者は編成を変え、初演の東京から半分の数になった。各地を共に旅した靴たちと別れが迫る、それまでの作品の軌跡を噛み締めながら立つ舞台には、えも言われぬ感慨深さが漂っていた。
「そう、この瞬間もまた踊りの根源に触れている」と実感しながら、「生み出す」と「失う」を繰り返す。とてつもない早さで。
観客からは見えない何かに向かって踊ることは容易だが、少しでもそれを可視化すること・“実感”を伴った表現である事実を舞台上に乗せること。
その重要性を考え続けているらしい。この時代に身体表現を創り出している意思として。
ツアー公演が閉幕し、各地を旅した靴たちと別れの時が来た。
身体・踊りは靴たちに捧げるような思いで舞台を終えたので、あとはもう感謝を伝えるのみ。
作品内で幾度も描いた“靴を送り出す”という事。意外にも清々しい心持ちだった。一足一足に触れて、お礼を伝えては手放す。
「踊ることで完了するなんて都合良過ぎ」ふと疑念がよぎるも、今の自分にとっては自然な感覚だった。
作品に注ぎ込まれる本音を、身体を通して昇華していく。
だから踊ることは美しい。
東京に帰ってからは次のクリエーションに臨みながら、空白を取り戻すかのように観劇を繰り返しています。
とあるダンス公演に心が震えました。ダンサーたちはやがて祈るように一つの“何か”に向けて踊っているように感じた。
観客には見えぬ実体のない“何か”なのに、舞台上には圧倒的な事実が広がる。乱れながらも踊り続けるダンサーを前に目頭が熱くなりました。これだからダンスも創作もやめられないです。
皆さん、ダンスを観に行きましょう。
すごい着地点になりました。
年々増していく「ダンス愛」、暑苦しいなとか、うさん臭いなと受け取っていただいても結構です。
でも、ダンスのことは好きになっていただきたいので言葉とカラダを尽くしていきます。
来月はもう少しダンスから離れてみようと思います。
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北尾亘
第5回 『踊ること/創ること 自由について』
雨が多いですね。
台風の上陸数も多い。
瞬く間に通り過ぎていく9月、もうここまで来ると年末がチラつきますね。
年末がチラつくということは、年度末がすぐ来ますね。
第1回目のコラムに書きました。
あの年度末ですよ、空白の3ヶ月。
そんな時の早さに思いを巡らせると9月というのは案外晴れ晴れしていて、それこそ小学生の時のような「新学期」の浮き足立った感覚があります。
行かないでー 夏と9月
地に足を着けたいので、今月はハッキリとダンスのことに触れようと思います。
【踊ること/創ること】
新作本公演を吉祥寺シアターで終え地方ツアーが始まった今、踊ることについてふいに考えている。
長編作品を創るうえでは、作品コンセプトやテーマを抱えざるを得ない。1時間以上じっくりと「ダンス」或いは「身体」というものを直視し続けることはなかなか難しい。それは分かる。
ただ1つの集大成として築き上げだ作品を前にして今感じるのは、自分の身体が本当に自由であったか否か?
それは定かでない。共演者にもいえることかもしれない。
「続けるために必要なこと」と「続けてきたから嘘をつけない感覚」とのギャップに考えを巡らせる長い旅がはじまりそうだ。
今は北九州の【枝光まちなか芸術祭】に参加している。
『靴屑の塔』ツアー公演を抱えながら、芸術祭での別パフォーマンスも展開中。
アーティストが街中の様々な場所に散らばり踊る、観客は街中を巡るようにダンスを目撃していく刺激的な機会だ。
3年目の今回、僕は例の如くソロを踊る。
加えて僕を除いたツアーメンバー4人が、出会いがしらの即興パフォーマンスを踊る。
即興といえど準備が必要だ。
パフォーマンスの出発点と着地点は何処か?
音楽は使うのか?それはどんな音楽だ?
誰から始めるのか?
自分の身体とは何なのか?
自分の正義とは何なのか?
黒田育世さんの言葉を借りるならば“よちよち歩き”のクリエイター達が頭と体を突き合わせて考えている。考えている。
その光景だけを眺めて僕は腰掛けている。
クリエーションは経験値が重要である。
繰り返していくと、おのずと必要な物事の判断は加速する。これは堪らなく嬉しい、僕は。
しかしもっと“よちよち歩き”だった頃から失ってしまった感覚もある。
今この瞬間に痛感している。
クリエイターとしての思考はどんどんと頑固にワガママになっていくだろう。
それに抗うことを忘れぬ身体を持ったダンサーでありたい。
クリエイター北尾は「多くのタスクをダンサーに浴びせコントロールを図る」事と、「ダンサーが内包している感覚を引っ張り出し導く」事を極端に使い分ける。
ダンサー達(北尾を含む)はタスクのように浴びせられる振付を乗りこなす「技術」と、自己を考察し持っている感覚を晒す「覚悟」を併せ持たなければいけない。
これはかなり難しい。
ただそこで培ったものは、いざクリエイター的に自分というダンサーをデザインする時に大いなる自由を手に入れる。その瞬間にまた自分と自分の身体を知るのだ。
ダンサーとしてどこまでも自由でありたい。
クリエイターとしてその自由を引き出したい。
そして生まれた表現が観客に染み渡っていく瞬間に立ち会いたい。より多くの人たちに。
今日この場所で生まれる2つのパフォーマンス。明日から始まる『靴屑の塔』の旅。
-北九州・京都・仙台-
東京公演までには生まれていなかった思考を持って臨む公演は、1回のステージ毎に進化と深化を目まぐるしく繰り返すだろう。
今月はギュッと詰まった内容ですかな。
実はこの連載コラムは8月までの限定企画の予定でしたが、言葉を綴ることに快感を覚え続けることにさせてもらいました。
「少なくとも1年はやりたい」という意思表明をサラッとここに記し、その上で今月はかための内容になりました。
今後とも是非ネット散歩の寄り道としてご覧ください。
Baobabの旅にも是非お立会い下さいね。
ツアー詳細は下記HPより!
http://dd-baobab-bb.boo.jp/
ありがとうございました。
*****
北尾亘
第4回 「音楽から浮かび上がる創造力」
連載コラムは4回目を迎えました。お読みいただいている皆さまに感謝します。
本当は「海水浴・プール・花火・夏祭り」それぞれ3回ずつぐらい楽しみたい程の夏が好きな私ですが、今年もそうもいきませんでした。涙です。
バカンスを投げ捨ててまで心血を注ぐ、我がダンスカンパニーの本公演が間近に迫って参りました!
作品創作の真っ只中ですので、今月はそれと絡めて創作のとある瞬間にフォーカスをあててみようと思います。
こういった話、大好きです。まずは詳細を、、
Baobabは旗揚げから6年を迎えます。
節目となる第10回本公演は全国ツアーです。
ここに至るまでの軌跡を振り返りながら、集大成としての挑む大きな一歩。
所在のなくなった「靴」をモチーフに、現代の生産と消費のサイクルについて迫る今作。
東京公演では旗揚げ以来目標としていた“吉祥寺シアター”に進出!
ご期待ください。
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Baobab第10回本公演ツアー
『靴屑の塔』
振付・構成・演出:北尾亘
踏み鳴らし舞い上がる
崩れ落ちた靴屑の集積
出演:
北尾亘 米田沙織 目澤芙裕子 久津美太地 傳川光留 (以上、Baobab)
福原冠(範宙遊泳) 岡本優(TABATHA) 村田茜(MOKK) 中川絢音(水中めがね∞) 中村駿
【東京公演】2016年9月8日(木)〜11日(日)
<日時>
9月8日(木)19:30
9月9日(金)15:00/19:30
9月10日(土)15:00
9月11日(日)12:00/17:00
<会場>
吉祥寺シアター
http://www.musashino-culture.or.jp/k_theatre/
<チケット料金>前売・全席自由
一般3,000円
学生2,500円
高校生以下1,000円
※当日各500円増し
ペア割 5,000円(カンパニーのみ取り扱い)
その他、ツアー詳細は下記より。
【Baobab公式HP】←リニューアルしたので是非覗いてみて下さい!
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今作のクリエーションに先立ち、楽曲提供【岡田太郎(悪い芝居)】との共同滞在制作を行った。(4月)
【音楽から浮かび上がる創造力】
日頃から音楽との結びつきを重視した創作を繰り返すBaobab。作中の楽曲についてのこだわりは強い。
コンテンポラリーダンスと呼ばれる様々なクリエイターの音楽性は非常に豊かで幅広い印象を持っていて、自身が観劇する際も注目する点だ。
生演奏・オリジナル楽曲・環境音・無音。
無限の選択肢の中でも、既存曲を中心に創作を繰り返してきたので、4月の共同制作は非常に豊かな時間だった。
岡田太郎ちゃん(以降、太郎ちゃん)は、楽曲提供として3度目の参加。過去楽曲の制作の場に立ち会った経験はない。
楽器の一つも出来ない自分には未知の経験。その中で交わした言葉や感覚はまさしく「異ジャンルのクリエイターとの交流」のようだった。
太郎ちゃんはロック系の劇盤を多く手掛けるバンドイメージが強い人も居るかもしれぬが、彼のルーツはレゲエやスカにある。
僕も土着的な民族音楽に早くから興味を持ち、作品でも扱っていった経緯で現在の身体性に辿り着いているので、こういった話には花が咲く。
加えるならば、彼はDJとして、僕はダンサーとして互いにCLUBカルチャーにも触れる機会が多く、音楽にカラダを委ねることが好きだ。
印象的な話がある。フィールドワークの一環として2人で淀川を眺めにいった時のこと。(今さらながら!滞在制作は大阪でした)
「音楽には生き様や民族性が現れてると思うねん」と太郎ちゃん。
「古き良きレゲエのレコードを聴くと見事に一緒で、打楽器でボカーンと始って最後はフェードアウトやねんな。これって死生観につながってる気がして、ポーンと明るく生まれて死ぬときの事を重たく受け止めてへんと感じんねやんか!日本の今のポップスやEDMは律儀に前奏があって規則正しいサビがあり、後奏も律儀にしっかりまとめる。」何曲も聴かせてもらったレゲエは確かにその体裁だった。深く納得する。
自分の作品には常々その時の考えや感覚を吹き込むように「子を産み落とす」ような感覚で臨み、過去の作品達は「生きた軌跡」のように捉えている。
そんなダンスに対する向き合い方は、彼の音楽を生み出す感覚とも共鳴した。
互いにそんな言葉を交わしながら、「ポップスみたいな生き方は退屈やな」という共通の感覚を持ち帰り創作が始まった。
太郎ちゃんはギターを手にして、曇天の淀川で採集した川の音を確かめながらおもむろに弾き始める。その情景がハッキリと浮かんでくる。
音をチェックしながらブツブツつぶやく。自分の稽古場での振る舞いと重なってニヤニヤ、僕はニヤニヤしながら見つめていた。
何か返したくて言葉を綴ってみたり、身体の感触を伝えたりしながら楽曲が立ち上がっていった。
ダンスミュージックと呼ばれるような楽曲を扱う事が多いのには、カラダを揺さぶる感覚・低音に誘われるように重心が深く地に向かっていく様を、意識している。ただそういった身体的な事柄だけではなく、その奥に浮かぶ情景を常々意識して選曲している。
ビートミュージックは一定のリズムがとめどなく続く。そこにダンスが立ち上がると身体が情景を描くことが可能になったりする。
例えば既存のメロディアスなギター楽曲やクラシックなどは、身体を置き去りにして音楽が情景を創ってしまうように感じる瞬間があってなかなか選択出来ない。
太郎ちゃんと共に眺めた情景。交わした言葉や価値観。目の前で奏でられた音。
この経験の先で出会う楽曲には、確かな感触を持って身体を立ち上げられそうな気がした。
その相乗効果は、これまで以上に奥行きある情景を浮かび上がらせることだろう。
と、他人事のように期待している4ヶ月後。
音楽についての話は尽きない。「唯一の趣味」と言っても過言ではないのでまだまだ綴れてしまいそうだが、新作『靴屑の塔』の稽古があるのでこれで。
そういえば吉祥寺シアターからのご紹介で、むさしのFM番組「むさしのクラシックアワー 音楽百科事典(岡野 肇)」 に出演しました!
クラシック音楽に精通されている岡野さんによる1時間番組のゲストとして出演し、岡田太郎の楽曲や新作で使用予定の楽曲を多数紹介。ダンスにまつわる音楽の話は盛り上がりまして、初対面の岡野さんからは「どこか土臭さを感じる。デジタルなようで生音のアナログさが良い。」とズバズバと的確に印象を話していただき盛り上がりました!
下記HPから収録された番組をお聴き出来るそうなので是非っ◎
むさしの-FM→http://www.musashino-fm.co.jp
9月あたまは吉祥寺シアターでお会いしましょう。
毎月文章量が多くなっていくことを少し不安視しておりますが、ようやくコラムらしくなってきたように思えた8月号でした。
*****
北尾亘
第3回(7月) 『キャッチしたくても通りすぎていく』
こんにちは。
或いは、こんばんは。
未だコラムとブログの違いがわからず頭を抱える、北尾亘です。
連載コラム7月号は、第3回目を迎えます。
第1回はコラムと思えるド真ん中を。
第2回は日々に焦点をあてコンセプチュアルに。
そして第3回目となる今回は、一気に綴ってみようと思います。
「土地について」か「音楽について」で書きたい事があったのですが……導入はタイムリーに触れたい事柄から始めます。
選択されなかったどちらかは来月以降で、またですね。
*****
日本上陸にあわせて爆発的な人気を呼んでいる「ポケモンGO」
ダウンロード開始から初めての週末を経たそれは、社会現象に近い反応を巻き起こしてますね。
第一次ポケモン世代の渦中にいた自分としては懐かしさを覚えながらも、まだ距離を保っています。
都内の公園やプラットフォーム的な場所にはスマホを持って佇む人の姿で溢れかえって、
今通っている三軒茶屋の駅前広場にも子供から叔父さんまでそれに興じておりました。
テレビっ子が仕入れたメディア情報によると、「ポケモンGO」は主要都市向けに作られたコンテンツだそうです。
モンスターボールを入手出来るスポットは都市部に溢れながらも、地方にはあまり設置されていないそうで……
つまりは引きこもっていた人が家を出れるキッカケとなるならば、都市部に出向かなければならないらしい。
「これだけの人気があるならばこのコンテンツを利用して地域活性を促せるのでは?」という想像は、
僕のような人間でも容易いのですが、今の所現実はそうではないみたいです。
ちなみに捻くれ者で流行には一旦ガヤを入れたくなる性分の私は、まだダウンロードしていません。
ルールには従う。歩きスマホは危険。
加えて、電車は降りる人が優先です。
土地に吹く風/その地に流れるものごとについて
ここ1、2年でホーム以外の土地に出向く機会が増えました。
2016年は年明けから初の海外(!)フランスはパリから始まり、仙台・広島・福岡・京都・北海道・八丈島・兵庫などなど。
これから訪れる土地も含めて沢山の場所に出会えそうなのです。
もともとBaobabも京都で本格的な産声をあげ、今年は9月から10月に掛けて最多の4都市ツアーを予定しています。
嗚呼、幸せ。
東京を離れるのは素敵です。
自由の利く生業とはいえ、東京の地は時に息苦しく感じ人の多さに悶えることもあります。
“急な坂スタジオ”もまた、東京都心部を離れて通えるは僕にとってはオアシスのような存在です。お世辞抜きに。
カンパニーに携わってもらう人には苦労掛けつつも、その名のとおり急な坂を登った先に待つその場所は“ヴェルタースオリジナル”なのです。
そしてもっともっと遠く離れた知らない土地を訪れる時、その場所での出会いは確実に何か足りなかったものを補い癒してくれます。
それは景色であったり、会話であったり、食事であったり、吸い込む空気であったり。その場所に吹く風であったり。
6月末からこの7月半ばまでは、俳優ユニット【さんぴん】として宮城県は仙台に滞在制作でどっぷり浸かっておりました。
[さんぴん→https://sanpin.theblog.me/pages/38071/profile]
このチームは公演を行う土地に都度滞在し、一般の様々な方にインタビューをさせてもらい、
そのエピソードをお借りして演劇を立ち上げるという稀有な活動をしています。(旗揚げは2015年/東京)
「人を通して土地を描き出す」という活動を始めてから、今まで以上にその地で感じる事が増えたように思います。
仙台の地に吹き抜ける風はとても爽やかで、都会でありながらも「杜の都」というだけあり緑も豊かで梅雨のど真ん中でも心地良い場所でした。
親戚が京都に集中しているので、「東京から来た」というと煙たがられるのが常だと思い込んでいた自分にとって、
仙台でインタビューさせてもらった若者から「都会の人だぁ」という声が出たのには驚きました。なんと素直な声。
照れ屋と噂の東北人でしたが、一度懐に入り込むととことん優しい人たちで溢れていて、土地だけでなく人の魅了された感覚です。
そんな人々のエピソードで溢れた【さんぴん/仙台公演】は、不思議とアッパーで優しい空気に包まれ好評をいただきました。
2度3度と足を運んでくださる現地の方々に加え、わざわざ東京からお越しいただいたお客様まで。
俳優仲間が助っ人に現れてくれたりと。知らない土地で見慣れた顔に対面するのも不思議な感覚です。
当たり前のように同じ時間は、空間が変わるとこうも貴重なモノになるのだと実感しました。
所変わって、その公演を終えた1週間後には広島へと向かいました。
活気ある空気にテンションが上がった結果乗り間違えたバスの運転手さん。
「うわーよく間違うんよ!こっからやとタクシー乗らなね。任せといて下さい!タクシー広いやすいトコで降ろしたげます。」と軽快に話しかけてもらい、
果てには「余計なお金掛かるねー」と言いながらバスのお代は不要と見送ってくれました。何だこの陽気な出迎えは⁉︎
乗り込んだタクシーでも「アステールプラザは何か催しですか?えっ⁉︎ダンサーさん?そうですか。がっぽり稼いでいって下さい!」と愉快なお喋り。
土地が変わるとこうも面白い出会いがあるのかと。西はやっぱり弾みが良いです。
(そんな広島では9月中旬にダンス公演を行います。)
ただの思い出話みたいになってしまっていますが……
これを記しはじめてみると何だか記憶も感触もおぼろげになっていると気付きました。
その時あった確かなモノは、ところ変わるとこんなにも曖昧なのだなと。寂しいもんだなと。
それは東京の地が影響しているとも感じます。
あまりにも早過ぎる時間の流れに揉まれ巻かれ、8月がやって来ました。
通り過ぎていく季節の風と香りを逃したくないから、バーチャルな地図を追っかけスマホに食らいつく事には抵抗があるようです。
ポケモンなんかよりも、ようやく訪れた夏にうぬぼれ海へGOしたい気分です。
*****
北尾亘
第2回 北尾亘的「煙草の害について」
こんにちは。
あるいはこんばんは。
ひょっとして、おはようございます。
北尾です。
コラム連載スタートから早1ヶ月。6月号でございます。
瞬く間に通り過ぎた6月には29歳になりました。
今までで一番実感の薄い誕生日でした。
そんなことはさておき、今月は日々の出来事を記しました。
相変わらず「これってコラムなの?」と軽い疑問符を抱えながら、コンセプチュアルにGO!!です。
6月8日
■たばこを吸う人の心労について
2週間程前に、愛用していた携帯灰皿を紛失した。それは4年くらい前に演劇の聖地“下北沢”の本多劇場の下、ヴィレヴァンにて購入したもの。 確かその時は…GORCH BROTHERS PRESENTS 『飛龍伝』の振付で劇場入りしている合間、たまたま欲して購入した記憶がある。
喫煙歴9年目。缶入りのPEACEを愛煙していたじーちゃんに比べればまだまだひよっこながら、この10年弱で喫煙者を取り巻く著し環境の変化は多少なりと目の当たりにしている。
都心部では路面に「路上喫煙禁止」の表示。
タバコを吸わない人にとっては「駐輪禁止」と見間違える程度かもしれないが、昨今は喫煙所を探すストレスだけで何本か吸えそうな心境だ。
携帯灰皿を紛失していた2週間。とあるクリエーション及び本番(※のちほど)の只中で新たな携帯灰皿を購入する心の余裕がなかった自分は、3本の吸い殻を路上に放置してしまった。これは今でも悔やまれる。
本番を終えた3日後、ほろ酔い気分に身を預けていた深夜の帰り道。ふと自分の前を歩くサラリーマンが投棄したタバコに目が止まった。
のを無視して20メートル歩く。
戻る。
火を踏み消して左ポッケに入っていたコンビニのレジ袋(1番小さいの)を広げてみた。
霧雨の中、2週間で置き去りにした吸い殻3本の後悔を取り繕うように、帰り道に転がる吸い殻を拾い集めてみた。
善人ぶった罪滅ぼしにもならない豊かな時間。
途中、飽き足らず空のマウントレーニアやクリスタルガイザーのキャップがビニール袋を埋めていく。
50メートルで吸い殻30本ほどと、マウントレーニアにクリスタルガイザーのキャップ。
「よっしゃ善人ぶってみた」
吸い殻にはそれぞれに大木の年輪如き歴史が刻まれていた。
水分を含んでふやけた茶色。
捨てられたての芯が詰まったスリム。
外身が踏み剥がされフィルターむき出しになった白。
あわよくば、近隣住民がたまたま自分を目撃し「近頃の若者も捨てたもんじゃない」なんて思ってくれていたら良いな。とか、さっきのサラリーマンが携帯を落としたかなにかで振り返り「嗚呼、捨てるんじゃなかった」なんて後悔したら良いのに。とかとか、、
なんとまあ自分は強欲なのだろう。
2週間で3本の後悔を置き去りに出来ず、自らの欲深さを悟った家路であった。
この心労を、タバコは埋めてくれない。
6月16日
■ダンサーと俳優 雄弁と饒舌
Baobabのクリエーションにおいて、ダンサーに求めるものはその都度変化していく。
旗揚げ当初から俳優も交えた出演者で構成する作品を手掛けていて、
初期の頃は[俳優→言葉とがむしゃらな身体]、[ダンサー→ビギナーズラックな発語と洗練された身体]と、担うものを補い合うように紡いでいた。
ここ数年は身体へのさらなる探求心から、言葉やイメージはダンサーの「状態」に集約されていくよう促している。
まだまだ模索の最中なので明確なメソッドでもなんでもないのだが、例えば【舞台上に立つ・歩行する】というシンプルな身体の状態に、【どれだけの情報量を背負ってその場所に存在するか】というような事。
これを突き詰めていくには、自身の身体と感覚をどれだけ把握し信用できるか。
そして『その身体感覚を共演者や空間にどうプレゼンテーションしていくか』が要だと現状では考えている。
単に自信に満ちあふれていれば良いわけではない、その感覚は“共感”にまで繋がらなければ意味がない。
まっさらな感覚であれば良いわけではない、明確なものさしが無ければ誰にとっても手に取れぬ浮遊した身体となる。
なんとまあ感覚的なこんな話を、集ってくれているダンサーは「?」を浮かべつつも果敢に探求している。
振り付けを忠実に、或いは華麗に踊り抜いても、そこにダンサーの感覚が不在だと残像すら残らず通り過ぎてしまう。
雄弁な身体に踊ってもらえると、振り付けられたダンスも喜ぶだろう。
この感覚的なワークは、並行して言語化できるようディスカッションも頻繁に行っている。
しかしこれがなかなかに難しい事なのだ。賑やかな稽古場はしばしば沈黙に包まれる。
ダンサーは決して饒舌ではない。(少なくとも僕が出会ってきているダンサーは。)
演劇作品への振付や俳優としての活動も増えてきた昨今で、俳優の饒舌さには日々驚かされる。
(饒舌という言葉は良い印象ではないかもしれないが、個人的には褒め言葉として使用)
私が共演したり関わらせてもらった“素敵な俳優さん達”は、戯曲を読み解くのと同じように自己を考察し、その都度最良のパフォーマンスを披露する。その判断は素早く、客観性も兼ね備えながら躊躇いを見せず披露する。
そして尊敬するのは、その決断について論じられること。演出家とのやり取りでは、自身の選択の経緯と結果を明確に言語化して伝える。その様子は“職人”とも呼べると勝手に思っている。
この饒舌さと職人気質をダンサーが獲得したならば、それは収集がつかずとんでもない事態になると思う。ので望んではいない。
ただ自身の感覚を言語化する作業は非常に重要で、自己考察とともに“感覚のものさし”を育む価値ある機会だと捉えている。
言葉を取り扱わない身体だからこそ、感覚にうぬぼれず少しずつ言葉にしてみたい。
その言葉は感覚的でも良い。(ダンサーの感覚的な言葉は、時に饒舌さを越えた美しさがある)
だから今日も待っている。 饒舌ではないダンサーの言葉を 雄弁な身体を。
6月5日
■(※)「とあるクリエーション及び本番」について
『第3回SHIBUYAルネッサンス』
今年度Baobabとしては初の活動でした。
この企画は渋谷文化村通りで行われた野外パフォーマンスフェスティバルです。
「渋谷の街新たな道/新時代のダンスパレード」をテーマに掲げ、全長30mの路上はダンスフロアと化しました。
『DANCE×Scrum!!!』で広がった繋がりに拍車をかけ、Baobabがディレクションの舵を取りながら、コアクリエイターとして[岡本優(TABATHA)・中村蓉・升水 絵里香]を招き、北尾を含めた4名で30分のダンスパフォーマンスを構成。
かつてない規模ですが30名を越えるダンサーに公募のパレードダンサーを加え、総勢46名の大群舞!最終的には観客までも巻き込んだ大ダンスパレードが展開され、おかげさまで大好評に終わりました。
個人的に思い入れが強い“渋谷” その街中で踊れる日が来るとは夢のような体験でした。
各クリエイターのこだわりや作り方は異文化交流のように刺激的で、そこに集ったダンサーとの新たな出会いは実直さに溢れ心洗われる心境でした。
コンテンポラリーダンスの“コ”の字も知らないであろう観客が遭遇した「何やら面白いダンス」。この繋がりが巡り巡ってこれからに行き着くことを強く願った白昼夢でした。
目撃してくださった沢山のお客さま、携わって下さった方々に心から感謝します。
*****
今月はだいぶ真面目でした。
北尾亘
第1回 コラムヴァージン
こんにちは。
初めましての方は初めまして。ダンスカンパニー【Baobab】主宰、北尾亘です。
昨年度よりご縁があってサポートアーティストとして活動させていただいている、急な坂スタジオさん。まだまだ新参者ながら、創作やダンスにまつわるワークに留まらず、様々な発想の源として日々お世話になっている場所です。
この度、ディレクターの加藤弓奈さんから「コラム連載」のご提案をいただきました。日頃なかなか文字として言葉を発信する機会の少ないダンス界隈に身をおくので、妙な緊張とワクワクの中でこの言葉を綴っております。
「妄想セルフインタビューとしてみようか?」
「これといった趣味も無いからダンスや舞台のことに偏りそうだな。」
「きっとたくさん校正が入るだろうな、」
「いっそ呑みながら綴ろうか?」
色んな雑念は吹き飛ばし、まずはフラットに、第一回をスタートしてみようと思います。
■春先のファッションについて
ようやく過ごしやすくなった5月。気温も上がり重たいアウターを脱ぎ捨ててカラダも軽くなったような感覚。寒いのは苦手でどちらかと比較する前に「暑いの大好き、夏好き」を公言する身としては、この季節も悪くないなと。
先日とある友人と昨今のスニーカーブームの話をしていて、「最近は高いヒール履く人が減った」と言っていた。そういえば街中でとんでもない歩き方をする人を頻繁には見かけなくなったなと気付く。
そういう人と出会うと本気でダメ出しメモを書きたくなる。稽古場でもたまに真似てみたりもする。これはあくまでそういう人々を心底心配していると同時に、勝手にカラダの歪みや転倒を案じ過ぎてすり減った神経のためのガス抜きと捉えている。(とても身勝手な話ですが、、)
アパレルの世界には季節感とかあるのだろうか?
例年、新年を迎えてから少しすると店先のマネキンが、キツめの暖房の中で薄手の春物を纏いはじめている。毎年その光景を前に「季節感が歪むなぁ」と眺めているのだけど、その仕掛人(デザイナーやクリエイター)達について妄想すると、、、
「満腹状態で晩ご飯の献立を必死に考えている感覚では?」とか「夜勤明けのこの時間は昨日の延長と呼ぶべきか、周りに従い今日と呼ぶべきか?」とかとか。
自分ならパニックを起こしそうだなぁ、と。
(この話はあまり伝わらないような気がしています。)
せっかくなので感覚の妄想をサーフィンすると、、、
■年と年度について
年々増す感覚なのですが、1月から3月の間が宙ぶらりんな感覚があります。
(これはよく共感してもらえる話なので丁寧語にて。)
一般社会とはちょっと違った時間軸で活動する身だからこそな気はしますが…『盛大に年をまたいで、一年の物理的な清算を必死にこなしながら暖かい春に目掛けて進む。』というのが“一年のスタート”というのがどうも感覚としてしっくりときません。
ちょっとレイヤーが重なり過ぎていると思いませんか?そうでもないのでしょうか。
加えて2月は横浜を中心にダンスが盛り上がりの頂点を迎えるため、地に足が着いていないような感覚すらあります。
ですので最近では、「空白の3ヶ月」と呼んでみています。
なんの話なんでしょう。
最初で最後の『コラムヴァージン』ですので、大目に見てやってください。
そんな想いと妄想の中、今年の「1月から3月辺り」を個人的に振り返って締めくくりたいと思います。
連載コラム第一回目、今さらの本題です。
■『DANCE×Scrum!!!』とは何だったのか?
去る2016年3月。我がカンパニーBaobabが主催となり、池袋「あうるすぽっと」共催のもと催した若手ダンスフェスティバル。
「コンテンポラリーダンスをより身近に」
「若手クリエイターの作品発信の場・クリエイター同士の交流と刺激し合える関係づくりの新たな場」
「ダンス界の活性化」…
クリエイター・ダンサー・観客が、スクラムを組むかのごとく一斉に集い、さまざまな挑戦を掛け合わせた大規模な一大ダンスムーブメント。それが『DANCE×Scrum!!!』であった。
もともとジャズダンスやストリートダンスなどのエンターテイメント性の強いジャンルから足を踏み入れた私にとって、コンテンポラリーダンスは【難解・高尚・閉鎖的】というようなイメージを払拭出来ないと考えている。
この世界に身をおきながらも、未だそういった思いを抱く作品にも数々出会う。
ただその中で昨今の若手クリエイターからは、何かこれまでの印象を突き破ろうとする表現がくすぶり出しているように感じてもいる。それは自身のカンパニーでも貫こうとしている姿勢でもあった。
「どうだろう。ここらで一声上げてみては?」と、この指止まれ的に手を上げてみた。
性根は「お祭り好き」。演劇やパフォーミングアートが溢れるフェスティバルに多数参加させてもらった経験と、過去実施したパフォーマンスイベント『GOOD!!』の収穫を経て発案に至る。あうるすぽっとの劇場内を飛び出し、ホワイエ空間にも多様なダンス表現が散らばることで、ダンスの熱をより直に感じてもらえる環境づくりを押し進めた。
加えて実施に先駆けたインタビュー、乗越たかお氏(作家・ヤサぐれ舞踊評論家)による言葉に感化された点も、大きな目標となった。
インタビューリンク
「日本におけるフェスティバルは一過性のお祭り騒ぎの性質が強い。海外ではそこに集った者達の意見交換の場として重要な役割を持つ。」とのことだった。
ダンスの劇場離れ。カフェやギャラリー等での小規模なパフォーマンスへの移行が進むが、これはより情報もキャッチしづらくより閉鎖的な環境を生み出してしいるように感じる。才能あるクリエイターが埋没せぬよう集える場を持ち、価値観の討論や交流を生む。さらにはその場に立ち会った観客も含め、多数の表現の交差点で様々な議論や意見交換がされることを望んだ。
大志と思惑が混在した大規模な試みは、結果として大きな収穫となった。
各クリエイターの臨み方は本当に個性豊かで、それはそれぞれの作品世界の違いと同じくらいに刺激的なものであった。
作品の枠を飛び越えて企画に没入してくれた人。一心不乱に良き上演に漕ぎ着くため猪突猛進した人。周囲の出方を注視しながら隙間に鋭く表現を投げかけた人。
まずはそんな場が立ち上がったことを嬉しく感じる。これはただのお祭りの中では生まれぬ刺激の連鎖であったと感じる。
興味深かったのは、どこかで「みなまでさらけ出さぬコアな部分、或いは考え。」を全員が抱えていたように感じた点。
これはダンサー特有の“身体感覚”に関係しているように思う。 このダンス界隈では、見栄えや統制以上に「本人の身体感覚」を重用視するのが特徴。日頃集団作品を手掛ける自分であっても、他のダンサーや振付家とは共有し得ない『絶対領域的な身体感覚』が存在していると感じる。
交流を大きく打ち出す企画の中でも、その点までは晒さないヒリヒリした関係はダンスにおいて重要なのだろうと悟った。
あぁ日本人的。(自分に対しても)
観客にとってはどうだったのだろう。
フェスティバルの彩りとして、ドリンクの提供やDJプレイも加わった終演後のアフターパーティー空間は、およそ日本で他に類を見ない試みだった。
聞こえてきたご感想も豊かなものが多く、コンテンポラリーダンスに対する閉鎖的な印象は幾分変化したのではないかとも思う。
加えて若きダンサー達への賞賛の声も多く上がり、ダンスの未来に明るさを覚えていただけたなら感無量である。(願望も含めて)
いつまでもDJがプレイするフロアで踊り続けるダンサー達を、少し離れてずっと見届ける人達の姿が印象的だった。
その渦に入り込むでもなく、ただどこか名残惜しそうにお酒を口にし笑顔で見守る。
この時間と空間は唯一無二の場だと確信した。 そこに集い目撃した事実が、この先にも続いていって欲しいと願う。
このフェスティバル最大の課題は、「継続」である。
第一回目に集ったクリエイター・ダンサー、そして願わくは観客が、その当事者として次の活動やダンスへのまなざしに繋がっていかなければ意味がない。
一過性のフェスティバルに留まらず、この機会を通してより遠くまでダンスが浸透していくよう働きかけたい。一つのプラットフォームとなれるよう。
きっとまた開催します。一度目を逃した方も、頭のどこかにこの事実を留めておいていただけたら幸いです。
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何だか浮ついた内容が増えた後半でしたが、「空白の3ヶ月」での出来事ですのでお許しを。
きっとこの連載コラムでは、また触れると思います。
北尾亘(Baobab)