Aokidのコラム「Drawing & Walking」第3回

急な坂スタジオで新しい連載をはじめます。
ダンスだけではなく、絵や美術など様々なアプローチで踊り続けてきたAokidさんは、どんな言葉を紡いでくださるのでしょうか。
このコラムでは、ふと思い浮かんだことや、稽古場や様々な場所ですれ違った人・ことについて綴っていただきます。
Aokidさんの独特なリズムで綴られる文章をぜひお楽しみください!

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Aokidのコラム「Drawing & Walking」 第3回

夏。公園での習慣と、舞台上演と、建築家と演劇作家によるトークと

今年の夏は長い感じがする。

6月後半から家の近くの世田谷公園で土や葉っぱの上で身体を動かすワークを始めた。
これは木ノ下歌舞伎『竜宮鱗屑譚~GYOTS~』の上演のために、小豆島にある肥土山農村歌舞伎舞台に行った際、隙間の時間に、客席でもあった斜面の原っぱの上で身体を動かすのが面白い稽古になっていた。そのことを東京でも似た環境で続けることで、身体を変えていけるのではというところに端を発している。
午前中、予定がなければ炎天下でも1〜2時間ほど公園でこのワークをして、帰ってきてすぐに水シャワーを浴びるのが、この夏の習慣になっている。
おかげさまか少し腰や太もも、足先など下半身の動きに変化が出てきている気がする。
公園には自転車で行って、二つの石の上に立ってぐらぐらしたり、切り株の上に片足で立って動いたり、土や葉っぱの上を裸足になって後ろ向きで歩いたり、踊ったりギターを弾いたりしている。

【夏休み】と【習慣】というのは相性が良い気がしている。スラムダンクやゴマちゃんを見ていた夏休みとか、プールやラジオ体操に足繁く通っていた夏休みだとか。
夏休みみたいな習慣がずっと好きで、それは自分自身で夏休みのような習慣をするのも、子供や他人から聞くのでもわかる、伝わってくる。
あと一月近く夏があるのは嬉しい。しっかりとこの波を乗りこなしたい。太陽!


公園でのルーティンワーク

6月に続き7月もいくつかの舞台を見た。ダンス寄りの舞台が多かった。
彩の国さいたま芸術劇場で上演され、周りの評判が高く、ネガティブな感想のほとんど見つからなかった、ディミトリス・パパイオアヌー『TRANSVERSE ORIENTATION』の感想を書いてみたいと思う。
まだ考えきれていないのだが前置きとして、ダンスとスケールに関して最近、疑いを持っている。観念的なものを潜り抜けてダンスやアートには取り組みたいと個人的に思っており、仮にその観念的な強さや信仰を持つのは一時的にはありだとしても、現実との接続を見せる必要なり、それに終始しない冗談やユーモアを伴った転覆を行うなどの必要を感じている。これは完全に自分の現在の志向から来ているのだけど。

上演が始まるなり、人体を拡張し造形的で匿名的なキャラクターたちがコミカルに動き回る。この感じはミニオン(?)みたいで面白い。拡張された人間に近い形の造形物の動きが人のそれとの間にズレを伴い続けることと、それを視覚が調整し続けようと働いてしまう面白さがあった。
だが終始この調子で”画”が作られていくのか、ひょっとすると労働としての100分間の上演がこれから続いていくかも、という予感で始まった。

“画”といえば、例えばどこか山とかに出かけて、そこで見上げる滝や石切場とか、、そういうことを見にいく経験。
鍛え上げられ稽古されたプロたちが、”画”を作るために今日も明日も稼働している。”絵画的”とかいうけども、絵画は個人で制作される。もちろん村上隆とか海外の作家には工房のチームワークによって作られる。あ、”宗教画”もまた工房で制作されてきた歴史がある。
なのでやはりこれも何も問題はないのだ、、、と鑑賞しながら、沸き出てくる疑問に対してのツッコミがまた先に待ち構えている。
、、、それをグルグルすること何度も、、引き続き鑑賞を進める。

でも、待てよ。僕はきっと、こういうちょっとコミカルで何か大きい見立てが手作りで作られていくのが好きなはずで、以前、橋本匠くんとの作品でも”同じ”ように作品を制作していたところもあると思う。ダンスの延長として美術的な制作を持ち込み、見立てを作る。でもそこで考えていたのは僕らはアーティストであるので、このアイディアはそれぞれのアート活動に従事し、そこには驚きがあり、更新可能性があるということ。
パパイオアヌーに関してはそのアイディアがそれぞれのダンサーに属していないように感じられた。もっと大きな何かの手足として駆動している感じ。それは西洋的な美学なり、宗教感にも寄ったものかもしれない。
その従属先を考えるとどうしてもその先に進めない感じがしていた。誤解を恐れずに言えば、これは我々日本人が需要したいこれまでの西洋像そのものなのではないか。

ふと”SASUKE”のことを考えていた。『筋肉番付』というテレビ番組で生まれた競技で、それぞれに独自の訓練を重ねた挑戦者たちが、アスレチックのような建造物をクリアしようと工夫し取り組むことを競争する。僕はこのSASUKEを学校の身体表現の授業などで【建築が作るダンスないしパフォーマンスの可能性】として紹介している。

パパイオアヌーの上演から “労働”を広くイメージしていくと、鑑賞物として体験出来るピラミッドやSASUKEのような大きな建造物が思い浮かんだ。劇場での上演ではなく、ピラミッドやSASUKEを作るじゃダメだったのだろうか、と考えた。あえて観客の前で労働を見せるということは、どういうことなのか。”画”を見ることもダンスの要素としては好きな要素ではあるが、例えばどこか綺麗な景色を自分で見にいくことで代用されないか、あるいはもっとそのことの方が大事でないか。“労働”だとしたら、より多くの人と何かを作り上げる方が面白いのではないか。

終わった後にそういうことを考えていたが、周りは大歓声。誰もがそんな経験があると思うが、強い分断を感じた。
舞台があれもこれも代わりにやってしまったら、劇場が好きな人たちは代わりの体験をし続けて他に足を運ばなくなってしまうのでは、とかそんなことを思ったのも勢いで書いてみる。

このことを考える根本に、ダンスがあれもこれも担う必要はないと思っているからだ。例えば、ある事象を扱った舞台作品があるとして、同じ事象を扱った美術展へ行った方が鑑賞者として振り付けられたり・鑑賞出来ることがあるという可能性を感じている。
それに気付けるかどうかは鑑賞の仕方や態度の問題かもしれないけど。それも含めて。

パパイオアヌーほどの予算をかけなくとも、事を、演出を起こし、それを感じることは可能なはずで、多大な予算をかけて事態を大きく見せること、そしてそれを肯定することで踏み倒されるたくさんの小さな感覚があるんじゃないか、そう思って見ていた。
パパイオアヌーは自分にとっては”前近代的”に思えて、コロナの渦中にあってもまだ大きな物語を教授したり、そのことにダンスが動員されるというモチベーションに少しうんざりしてしまった。小さくていいから新しい世代は何を考え、時代や国や地域の状況を受けて活動しているのか知りたくなった。そういった考えを拒否する身体や活動を見てみたいと思った。
世界ってどうあるんだっけ?新しい知らない希望を知りたい。

自分にとっての絶望は、「何も身体や知覚、活動が更新されていない」と感じられたことかもしれない。でもその劇場が扱う作品の傾向や役割としても、それぞれがすべきことをして、自分が感じるべきことを感じたとも言える。もう少し違う声がアート活動をする人の中から聞こえるかなぁ、と思ったけど、そもそもそういう人は足を運んでいないかもしれない。
でも教科書的にはこれを多くの人が抑えておくことも大事だとも思う。きっと数年前に見ていたら大感動していた気がする。初めてピナバウシュを見た時の感動のように、その感じはどんどん変化していく。そして見るうちに価値観が更新されたり、脱構築され続けていくことが、さらに面白く大事なことのような気がする。そうじゃなきゃダンスやアートも時代と”ともに”ここまで変化したりしていないはずで。

でもここまで書いてみて、やはり京都の公演でも絶賛だったようなので見た位置が悪かったのか、などと少し自分の体験を疑う気持ちも、、、

いったん観劇の感想はここまでとし、別の日に行った新しい世代の建築家たちによる街などを舞台に展開するトークイベントへ行った事について書きます。


SHAREtenjincho

8月5日、神楽坂にある(神楽坂といえばセッションハウスからも近いところにある)建築家のクマタイチさんが設計したシェアハウス兼オフィスSHAREtenjinchoの2Fで、そのクマさんと建築家・浜田晶則さんによるsceneが主催する『オルタナティブ パブリック #1”道”』というトークイベントが高山明さんをゲストに行われた。
“道”といえば先日まで森美術館で行われていたChim↑Pom展と関連していることもありそれで聞きに行った。
ドイツで活動していた高山さんから以前聞いたトークでもギリシャの太古の劇場とそのすぐ野外舞台の延長のように広がる街の景色との繋がりについて聞いていたが、今回は日本の話にも及んだ。
折口信夫の本から引用されたその話の中で、まず道で田楽が起きて、そこに神社が立つという。神社がそこにあるのではなく、先にその場でのアクションがあるという風な話でもあったと思う。
この前の段階で西洋の公共についても話していて、それは必ずしも西洋の公共が良いかというと色んな側面から見ると必ずしもそうではなく、それは公共というものに関しても公共が与えられた中での公共的な使い方としてあくまでやっているという風でもある、といった話だったと思う。その後でこの田楽について紹介されていて、それはたとえばこれから日本の中でもどのように公共を考えていくか作っていくか、あるいは田楽のようなやり方が劇場以外でのアートやパフォーミングアーツ、あるいはもっと生活に近いアイディアをどのようにして街に迫り出していくか、ということへのヒントとしても聞き取れた。

そういえば振付家の山崎広太さんに先日会った際にNew Yorkの街並が似たような景色が増えていて、またアーティストもその景色にフォーカスするようなアクションはないという状況の危機感について話していた。このこともリンクする気がする。

昭和、平成よりももう少し現在なら自由にヨーロッパ、アジア、日本、(もしかしたらアフリカや南米など)の祭の起こりについてスタートさせていけることがあるかもしれない、話せてもいいのかもしれないと強く思った。

改めて劇場で作品を観劇するということや、劇場に集うことについては引き続き考えたいし自分自身がそういった場所で作品を制作する機会なども作り出していかないと、先の観劇などへの感想なども含め信憑性に欠けてしまうなぁと感じている。
一方で、すでに道や公園、町の中で自分が試している活動を続けること。他の人の取り組みに関心を持つことを続けることで建物の内と外を行き来することも大切にしていきたい。(この活動に関してもこの急な坂のエッセイの中でも書いてみたい)

最近の自分の経験でも建物の改修工事や取り壊し前に行われるパフォーマンスがあったり(はならぁと2019だったり、Chim↑Pomにんげんレストランであったり)、渋谷の街を夜歩いていると良く見かけるようになった路上飲みとかの景色、その身体やアイディアはこれからどうなっていくのか。
またsceneのような建築家とその都度別分野の専門家が話を共有していくプロセス。
場所にはヒエラルキーや権力構造が生まれやすいかもしれないがそこでの活動や室外での活動、それらの中で演劇やダンスあるいは建築がどのように機能しうるかを広く話していくことでやっとその分野の技術を解体して考えたり、これからの場所の機能性の点で考えていくことが出来るのでは。様々な場所に身体を運んで言葉を交わすこと自体のパフォーマティブについても。

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Aokidプロフィール


撮影:石原新一郎

東京生まれ。ブレイクダンスをルーツに持ち東京造形大学映画専攻入学後、舞台芸術やヴィジュアルアートそれぞれの領域での活動を展開。ダンス、ドローイング、映像、パフォーマンス、イベントといった様々な方法を用いて都市におけるプラットフォーム構築やアクションとしての作品やアクティビズムを実践する。近年の作品に『地球自由!』(2019/STスポット)、『どうぶつえんシリーズ』(2016~/代々木公園など)、『ストリートリバー&ビール』(2019~/渋谷)など。たくみちゃん、篠田千明、Chim↑Pom、額田大志、小暮香帆といった様々な作家との共作やWWFES(2017~)のメンバーとしての活動も。