作り手が何を考え、何に興味を持ち、作品づくりの種を見つけているのか? 公演に至るまでの長い長い道のりの最初の一歩になるかもしれない瞬間を、コラムにしてもらいます。
坂あがりスカラシップでは、対象公演のサポートはもちろんのこと、恒常的な創造環境の整備も、重要と考えています。作り手が、自分のこと・自分の作品のことを、言葉で伝えることは、作家や作品に興味を持ってもらうためのきっかけになるはずです。そこで、『○月の橋本清』というタイトルで、橋本さんにコラムを連載していただきます。
その月々で、気になること、興味のあることを、自由に書いてもらい、橋本さんが自分で撮った写真とともに、お届けします。
字数もスタイルも自由な連載ですので、その時々の橋本さんの感覚が、ダイレクトに表現されるでしょう。『◯月の橋本清』、ごゆっくりお楽しみください。
目次
ーーーー《将来の夢は?》
という《球》が飛んできた。上手く、返せない。昔から身体を動かすことは苦手だった。正確に言えば、身体や心と上手く、付き合っていくことができなかった。小学生の頃、背が高く、手足が細かったため、一部の女子からは「ポテトフライ」と呼ばれた。
名は体を表わし、実体は属性で表わされる、と言えば、ここは揚げたてのニュアンスがほしい。そして、男らしくカリッといきたいところである。しかし、筋肉がなかった。冷めきった「ポテトフライ」のような、しなびれた柔らかさだけが与えられた。なんだか悔しい。あだ名という《球》を受け損ねてしまったのだ。
そんな風にして、あの頃の僕は、やたらに自分のことをもてあましていた。《球》が飛んできては、打つこともできず、ただただ言葉を詰まらせた。だが、
ーーーー《憧れの人は?》
ということなら、話は違う。これならサクッといける。
小学生の頃。僕は、奥菜恵になりたかった。
一九九七年の四月から六月にかけて、テレビ朝日系列で、『ふたり』というドラマが放送された。原作は赤川次郎。物語は、交通事故で亡くなった姉の声が、妹の頭の中に聞こえてくるところからはじまる。気がする。その妹役を、奥菜恵が演じていた。確か、高校生だったと思う。紺のブレザーの制服を着ていて、黒のボタンが三つで、それらがすべて、外れている。下は白シャツと、赤のリボンが巻かれている。最終話。だったと思う。スピッツの主題歌を背景に、夜の町を、制服姿の奥菜恵が、駈けてゆく。
それが、とてつもなくかっこよかった。当時の僕は、小学二年生。八歳である。初めて観るテレビドラマだったに違いない。七月。昼下がりの太陽が、僕らの町を焦がす。かすかに風が吹いていた。それがはじまりだったのかもしれない。無意識に、物語の中の彼女に憧れていたのかもしれない。
僕は制服のボタンを外し、家までの帰路を、いくつかの坂道を、一気に走り抜けた。風にたなびく制服の動きがとにかく面白かった。楽しかった。自分が自分じゃなくなって、登場人物の一人になって、ドラマの世界に、すうーっと吸い込まれていく錯覚を覚えた。
あれから十六年の歳月が過ぎた。まもなく僕は、二十五歳になる。
最近の話だが、部屋の整理をしていたら、遊園地再生事業団の『PAPERS』が出てきた。三年前、劇団の活動二十周年を記念して発行されたもので、『ジャパニーズ・スリーピング/世界でいちばん眠い場所』の終演後、購入した。大判で十二ページある。読み返してみると、演出家である宮沢章夫氏の創作ノートで手が止まる。その一部を僕なりにまとめてみると、以下のようになる。
女性が、街頭に立っている。行き交う人々に、マイクを持ってインタビューしていく。女性は様々な質問を投げかけるが、最後に決まって《あなたは誰ですか?》と、人々に問う。離れた位置で、その様子をカメラで撮影したドキュメンタリーがあった。
六十年代の有名な「インタビュー」の紹介である。宮沢氏が《問い》かけた。
ーーーードラマの中で、例えば、ある若い男に、《誰だ?》と質問したらどうなるのだろうか?
宮沢氏は続ける。
ーーーー若い男は躊躇なく、堂々と、こう答えるだろう。「私は、デンマークの王子だ」と。
僕はハッとした。理由はある。
ーーーーだが、ドキュメンタリーにおいては、私たちは、最後の《誰ですか?》という言葉に、一瞬、戸惑う。
単純で当たり前に思えるものも、突然、投げられてみると、思わず、こちらの身体が強ばる。確かにそうだ。だが、私は私だ。それぞれに名前があれば、職業や立場がある。一体何を躊躇することがあるのだろうか。
他の《質問》ならどうだろう。次は、僕の創作だ。フライで投げてみる。
ーーーー《愛(or勇気or希望or…)とは何ですか?》
宮沢氏は、戸惑いによって引き起こされる身体の「揺れ」に興味を持った。さらにそれは、「回答する者」だけでなく「質問者」にも当てはまると、考えを展開させてゆく。ーーーー三年ぶりに読み返してみると、当時は気づけなかったり、抱けなかったりした感情が出てくる。時を重ねることは、何かを冷やしてしまえば、その逆もある。それが起こった。僕の中に、一つ《問い》が生まれたのだ。揚げたてだ。
ーーーー《戸惑いは、ドラマの中にも起こりえないだろうか?》
これは、いわゆる、登場人物が抱える「葛藤」などとは違う。また、宮沢氏が先に挙げた『ドラマ』とは、『私たちが演じるドラマ』といった、二重性を帯びたものではなく、おそらくは、もっとシンプルなものであろう。あらかじめ断っておく。ーーーー断っておくからには、これからする話しは、『私たちが演じるドラマ』ということになる。
『物語』は、俳優の身体を通り抜けることで、思いがけない形をとる。次は、僕たちの真実だ。三ヶ月前の出来事だ。後ろを向いて、さきほどの《球》を、投げてみよう。
実は今年の四月に『ハムレット』を演出した。
ーーーーこんにちは、「オフィーリア」です。あの、「私」、いま、恋をしているんですね。「ハムレット」って人と、恋愛をしていて。「私」、「ハムレット」のことが、大好きなんですよ。で、「ハムレット」も「私」に、モーションかけてくれてるっていうか、絶対に、「私」のこと、好きなんじゃないかなーって、「私」は、思っているんですね。で、14歳と、30歳で、歳の差がある「私たち」だけど、このままいったら、この恋は上手くいくんだろうなーって、「私」は、思っているんですね。でも、「私」の父は、この、恋愛に、反対をしているんですね。
劇場に点在している俳優たちを指しながら。
ーーーーいま、あそこに、立っているのが、「私」の父です。「ポローニアス」っていう名前の、男性です。彼が「ポローニアス」、ここ、デンマークの、王様に仕えている、人です。あの、いま、奥で、ぼーっとしているのが、「ポローニアス」です。彼は「私」と、私の兄、「レアティーズ」の、実の、父親です。あそこにいる人が、「ポローニアス」です。「ポローニアス」は、あんまり仕事のできる男性では、ありません。あそこの、奥にいる男性が、「ポローニアス」です。彼の妻であり、「私」の、母親である女性は、いま、どこで何をしているのか、「私」は知りません。この『戯曲』にも、書かれていません。彼が、「ポローニアス」です。あの人は、温かい目で「私」のことを、見てくれています。彼は、「ポローニアス」。彼の趣味を、「私」は、知りません。この『戯曲』にも書かれていません。あの、奥にいる男性が、「ポローニアス」です。「私」の父親です。彼は、「私」を、確かに、育ててくれました。
その場で飛び跳ねる。
ーーーーそして、「私」は、こんなに大きくなりました。
その場で飛び跳ねる。
ーーーー確かに、大きく、なりました。
その場で飛び跳ねる。
ーーーーで、彼が、「ポローニアス」。ここ、デンマークの王様、「クローディアス」に仕えています。あそこにいる男性は、「ポローニアス」です。「私」は、彼のことを愛しています。彼も、「私」のことを愛してくれています。
今年の春。今から四ヶ月前の、四月末。
東京都武蔵野市にある吉祥寺シアターという劇場で、シェイクスピアの『ハムレット』を題材にした芝居を上演した。上記はその冒頭部分のテキストである。
若きデンマーク国の王子「ハムレット」の恋人である「オフィーリア」を語り手に置き、四百年以上前に書かれた『戯曲』を、「彼女」の、そして僕たちの『物語』に組み直していった。
客席に向かって。
ーーーー「私」の父親は、「私」の恋愛に反対をしているんですね。っていうのも、「私」と、「ハムレット」って、身分が全然違うんですよ。なので、もし、「私」の処女が失われてしまった後に、この恋愛が破綻したら、「私」は、傷物になってしまうじゃないですか。だから、彼は、優しさから、「私」の恋愛に反対してくれてるって、わかるので、だから、「私」は、彼の言いつけを、「私」は、守るようにしているんですね。だから、最近は、「ハムレット」からもらう手紙を送り返しているっていうか、冷たくあしらってるんですね。
突然ではあるが、舞台をデンマークから離してみよう。話は引き続きヨーロッパ大陸だ。ーーデンマーク、ドイツと南下していくと、オーストリアが見えてくる。そこで、一人の男と一人の女が、出会った。
写真家の古屋誠一という人がいる。
静岡県伊豆半島で生まれ育ち、大学で写真を学んだ後、渡欧。オーストリアの現地の女性と結婚して、男児を授かった。妻の名は「クリスティーネ」。
二人の出会いから、七年と八ヶ月。
次第に精神が病んでいった「彼女」は、家族三人で暮らす東ベルリンのアパートから身を投げた。日常的に妻を被写体にしていた古屋氏は、その姿を、自分のカメラに収めた。一九八五年のことだ。
妻の死から四年。古屋氏が『Mémoires』という写真集を出版する。そこには「クリスティーネ」の姿が写されていた。それから二十年。いや、もっと。それ以上の時間をかけて。古屋氏は、継続的に、そして、繰り返し「彼女」を世に出していく。
その一冊である『Aus den Fugen』という写真集が僕の家にある。アウス・デン・フーゲン。タイトルは、とある作品のドイツ語訳の一部からとられている。
そう。『ハムレット』だ。
ーーーー”The time is out of joint.”
第一幕第五場のラスト。父親の亡霊に出会った「ハムレット」の台詞である。日本語訳では《この世の関節が外れてしまった》などとして有名だ。
写真集は、映像作家である小原真史の文章からはじまっていた。写真というメディアを使って、過去を現在に定着させるということはどういうことなのか。そのようなことについて書かれている。
彼は、『ハムレット』のエピソードを引きながら、古屋氏の写真集を『脱臼した時間』と名付けた。そこでは[死せる者たちの時間]が開示されているという。
一九八五年。十月七日。月曜日。「クリスティーネ」は、家族三人で暮らす東ベルリンのアパートから身を投げた。ーー古屋氏はその光景を撮影する。そして、『写真集』という形で、発表した。
写真という、[かつてあった]ことを[いまここ]で絶対的に立証するメディアにおいて、「彼女」は、亡霊のごとく、[現在]に転写される。ーー小原氏はそう語る。
「彼女」の姿を、印画紙に焼きつけ、複製させ、外部へと放つ。
「彼女」の姿を、未来へと進む[時]のなかで、再構築していく。
それはーー[かつて]の「彼女」と、[いまここ]を生きる古屋氏が再び出会うこと。出会い直すことを意味する。個人の記憶や思い出を越えて、[時間]を脱臼され、[現実]と関係してゆくのだ。
とはいえ、古屋氏がはっきりと、このような確信めいたものをもって写真集を発表しはじめたわけではないだろう。もちろんこれは小原氏の想像であり、そして、言うまでもなく、『表現』であろう。
『作品』として世に出すということは、他者の、[現在]を生きている僕たちの《まなざし》に託される。
古屋誠一の人生を描いた『メモワール 写真家・古屋誠一との二〇年』という本がある。著者は小林紀晴。
帯には小説家である藤沢周からの寄稿があった。《悲劇の中で、甘美を求める姿》という言葉からはじまり、大震災などの例を出しながら、以下の文章で締めくくられていた。
これもまた、出会いの一つなのだろう。
ーーーー”オフィーリアを求める者達の宿痾の疼きと罪”
僕は、出会ってゆく。
過去の、誰かと、誰かの文章や思考と、出会ってゆく。
写真に限らず、出会ってゆく。
小説、映画、音楽などの記録媒体を介して、出会ってゆく。
不思議な運命へと導かれるようにして、出会ってゆく。
偶然のような、必然のような出会いを、繰り返してゆく。
そして、僕の、思考がはじまる。
しばらく倒れた後に、ゆっくりと起き上がる。
ーーーー「私」の、可愛い娘、「オフィーリア」が、おかしくなってしまったようです。狂ってしまったようです。そして、「私」の可愛い娘、「オフィーリア」。「私」の愛する娘、「オフィーリア」は、川に、川に落ちて死んでしまったらしいんです。そして、「オフィーリア」のお葬式、「オフィーリア」の、「私」の可愛い「オフィーリア」のお葬式で、あの、忌々しい、「ハムレット」と、「私」の愛する息子、「レアティーズ」が鉢合わせしました。「オフィーリア」、「オフィーリア」、「私」の愛する娘、「オフィーリア」のお葬式、「オフィーリア」のお葬式です。「私」の愛する娘、「私」の可愛い娘、川に落ちて死んだらしいんですが、心の優しいあの子のことです。ずっと思い悩んだあげく、自分で身を投げたに違いありません。
演劇において『物語』は、『私たちが演じる物語』という二重性を、常に孕む。
[いまここ]を生きる「私」が否応なしに舞台に乗るのだ。そして、「私」は決して「オフィーリア」にはなれない。
だからこそ、僕たちは、四百年以上前に書かれた『物語』を、[かつてあった]ことを想像する。ーー僕もそうした。
今年の春。今から四ヶ月前の、四月末。
『ハムレット』を題材にした『作品』を発表した。
『物語』を支える最低限の情報と、そこから生まれる感情をテキスト上に組み込みーーつまり、「恋人」という立場や「死去」という事実/「恋愛」という主観や「死因」という想像を軸にして、『物語』を脱臼させた。
演劇を介して、肉体を通して、『物語』は解釈される。
二重性の意味において言えば、[いまここ]の「私」によって、『物語』の解釈は、演じられる。『解釈を演じている物語』が『物語』に並走している。
だから『ドキュメンタリーを帯びたドラマ』を目指した。目指したというよりは、次第にそうなっていったのだが、とにかく僕は、[いまここ]にいる「私」が、不確かな「登場人物」に向きあうその姿に、とても興味を持った。
だが、[いまここ]にいる[私]の保証は実はどこにもない。
《あなたは誰ですか?》と問われても、《私は私です》と、はっきりと答えられなく、「私」は不確かなものである。そして逆に、「登場人物」が確かなものとして受け止められる場合もある。
[いまここ]という現在の時間が強調されることは、ともすると、[いまここ]に「いる」ということが事実として担保されると、僕たちを錯覚させる。
例えば以下のような文章を読むとする。
青い空。白い雲。
こう書くと、別に「ある」と書いていないのに、僕たちは、青い空や白い雲が『世界』に「ある」ものとしてそれを受け取ってしまう。と言うようなことを、誰かがどこかの本に書いていた気がする。
ーー極論を言えば、『ハムレット』という『物語』を上演している以上、[いまここ]にいる「オフィーリア」は、存在する。
《私は、オフィーリア》なのである。
そして、やはり、決して「私」は「オフィーリア」にはなれない。俳優の身体を介すことで「私が演じるオフィーリア」が顔を出す。そうした矛盾する現象が常に、舞台上に起こっているのだ。
だからこそ、戸惑いが『ドラマ』の中で生まれる。
「私」もまた、一つの虚構である。「オフィーリア」だけでなく「私」という存在も「私」によって演じられている。《私は私》と《私はオフィーリア》は、同時に、生きている。
演劇の[現前性]においては、『物語』は、観客の肉体も通り抜ける。[歴史]という長い[時間]と、[いま]という[瞬間]が、《まなざし》にさらされることで、脱臼され、亡霊をが呼び起こす。それは時として曖昧に、また、括弧たるものとして、[いまここ]にいる僕たちと出会ってゆく。
そのはざまに揺れ動きながら、なお、誰かとして、この世界に、舞台上に立つ俳優たちの「姿」は美しい。……なんだか話が広がってしまった。
今から十六年前。
小学生の頃。僕は、奥菜恵になりたかった。
だから、夏風に無邪気に制服を揺らした。「私」の身体を《風》に託した。
たったそれだけのことで、一瞬だけだが自分が自分から離れたような錯覚を覚えた。脱臼が起こったのかもしれない。世界が少しだけ変わった。
あれから十六年の歳月が過ぎた。僕は、二十五歳になった。
コラムという形もまた「私」を《他者の目》にさらす行為だろう。そうすることで、嘘になったり本当になったり、確かになったり、不確かになったりしても構わない。そこから何かが変わってゆく可能性だってある。
何が言いたいのかと言うと、二十五歳の僕にも、そうして、時間を歪ませ、出会いたい過去があるのだ。[いまここ]に招き入れたい亡霊がいる。
僕の親父だ。
『ハムレット』では、父と子の思い出はほとんど語られていない。そのため、四百年以上の長い長い時間の中で、数多くの人々が、様々な想いを巡らしてきた。
そして僕もまた、父との思い出がない。ーーーーだからこそ、想像する。
一九八八年の八月。
僕は、ブラジルのリオデジャネイロで生まれた。
そして、母と一緒に、ここ、日本にやって来た。
その時、父は、一緒ではない。
父は後に、強盗に射殺され、帰らぬ人となる。
母が日本に移住した理由はいくつかある。
その一つに、父親から逃げる。という意味合いのものがあった。
最低限の事実と、無限大の主観をもとに、再構築していこう。
はじめて三沢の犬と出会ったのは、二年前の秋頃だったと思う。
路上をさまよう、野良犬の、振り向き様の一瞥をくらった。ーー「なんだよこら」と、こちらに喋りかけてきそうだったが、「その犬」はそもそも吠えることができない。犬は写真家の森山大道によって撮られた写真で、彼のエッセイ集『犬の記憶』に収められている。
以前モノクロ写真をやっている友人から、写真を焼く時に心がけていることを聞く機会があった。僕は普段写真を撮らないので、カメラを手にした人が世界をどう捉えているのかに興味がある。
ーー「画面の中で一番白い部分と一番黒い部分をどこにするかを考えている」
と、友人は語る。その言葉を聞いてからというもの、写真に限らず、なにかの光景の中の明暗を探すようになった。
そんなこともあって、一番暗い(と思った)その「犬」の翳った顔の、うっすらと光る白い目が印象に残った。じろりと、こちらを見ているようだった。
まるで生きているようだ、という形容があるように、その「三沢の犬」が本当に動き出したことがあった。つい最近のことだ。
写真評論家の飯沢耕太郎『深読み! 日本写真の超名作100』を読んだ。
左開きで、200ページ以上もある。左に飯沢氏の解説、右には写真。日本の写真史を踏まえながら現在に至るまでの写真家の数々の名作が紹介されていた。ーーあれ?と思った。僕がはじめて出会ったそいつは、右に頭、左に尾だったはずだ。そこには、背後の気配に気づいて右側から振り向いたーーつまり、左右反転した、左向きの犬がいたのだった。
はじめて雑誌で発表する際に、置かれるページの左右を見て、本来の向きとは反対に印刷したものを使ったのだという。そのためネガを裏焼きした。その後にネガを紛失することで印刷したものを複写してネガにした。そうして反転と再反転を繰り返すうちに、森山自身もどっちが本物だったのか忘れたらしい。
右か左か分からないーー『犬の記憶』でも引かれている萩原朔太郎『猫街』の世界だなあと思った。
家にある写真集や雑誌、ネットで画像検索をかけると、犬の《向き》の法則が分かる。一概には言えないが、本の開きと犬の向きは対応しているようだ。つまり、僕がはじめて出会った右開きだと《右向き》。飯沢氏の左開きの本だと《左向き》。なぜだろう。
人はーーこの場合は動物だが、いつまでも後ろ向きというわけにはいかない。必ずいつかは、前を向いて、歩いてゆくだろう。左右反転した姿を見たことで、犬のこれからの動きを想像するようになった。
《右向き》の犬が、ぷいっと顔を《前》に戻す。つまり《左》に向き直す。野良犬だろう。路上をさまよう犬は、なかなかまっすぐには歩けないに違いない。そんなイメージが僕の中にあった。向き直した力のまま、犬は《左》の方向へーーこれから僕がめくろうとしている《左》のページへと。その裏側へと。歩き出す。
「なんだよこら」という。そして、前へと向き直しながら、先導するように「こっちへこいよ」とも言う。そうやって「犬」は、僕を書物の世界へと誘ってくれるだろう。
写真というのはある種の正しさを証明するものだと思っていたので、この出来事は衝撃的だった。
前置きが長くなってしまったが、僕の父親の話である。
僕には父親の記憶がない。三歳の頃、ブラジルから母と二人で移住した後、一度も父と会わないまま、小学校中学年ぐらいの時に死去した。なので「父」という実感が僕の中にはなかった。ーーそんな「父」にはじめて触れたのが、一枚の写真だった。
中学生の頃だったと思う。「お父さんがいるよ」と家族写真を母親から手渡された。ブラジルに住んでた頃のものだ。写真には、小さな女の子(従姉妹?)をおんぶした父と、叔母たちを挟んで、僕が写っていた。母親がいなかったから、撮影していたのだろうか。
余計に「父」が分からなくなった。父親が僕以外の子供をおんぶしていて、親戚の叔母さんたちを挟んでいたため、父と距離もあった。こんなの「父」じゃないとも感じた。ショックだった。
事実と真実は違う。ぬくもりを注ぐことと、写真からぬくもりを想像することは違う。
「写真」という記録を通して、父の実感を得たい、という淡い期待がどこかであったのかもしれない。父親が写真の中で、父親らしくしていなくても、父親は僕を愛していたのかもしれない。そもそも僕が生まれたという事実は、確かに瞬間的でも父は母と愛し合ったことを保証はしないまでも、想像することはできる。
だけど、それを、その愛を、実感することはできない。それでも、確かに、僕は。あの時の僕は、愛を感じたいんだ。ということが、今、わかった。愛されたいんだ。ということが。そのために見たかったんだ、ということが。
今、この瞬間にわかった。
コラムを読んでくれた友人に、改行と段落下げがラノベみたいだと言われたので、今月は抑え気味でいこうと思います。こんにちは橋本です。先日、稽古休みを利用して二泊三日で北九州に行ってきました。昨年、ブルーノプロデュースでえだみつ演劇フェスティバルに参加して以来、二度目の訪問です。前回は作品づくりに追われていたので、今年は観客として。観劇や町歩きなど、思う存分楽しんできました。あと、ふぐが美味しかったです。僕は、なんでも美味しいと言ってしまう質なのですが(腐ったおはぎの不味さにも気づけないレベルと言えば伝わるでしょうか?)すごく美味しかったです。改行しないでいきます。枝光は、かつて八幡製鉄所で栄えていた町です。今年のフェスティバルには、その「鐵」をモチーフにしたプログラムがありました。今回の旅の主な目的もこれを観るためでした。「八幡」の土地の由来にもなっている枝光八幡宮の境内で、演劇・音楽・舞などの様々なパフォーマンスが上演されるとのことで、前日に北九州に到着した僕はワクワクしてました。しかし、ひょんなことから、現地の男子中学生の一人と行動をともにすることになったのです。
翌朝。神社の境内では、鉄を作るパフォーマンスがはじまりました。境内には、火鉢が二つ。上下に重ねられたものがいくつか置かれてました。上部(つまり、さかさまの向きの火鉢)のてっぺんには、丸い穴があいており、ここにリモナイトと呼ばれる鉄の酸化鉱物を入れます。これを木炭とともに燃やすことで、酸化還元を引き起こし、鉄を取り出すそうです。誰かがリモナイトを火鉢の穴に入れる度に、黒煙がぶわっと湧きます。まるで、小さな高炉のようでした。僕はその煙を遠目で見ながら、反対のーー火を持ち込めない、そのイメージとは遠くの場所にいました。森です。僕は彼に連れられてこの場所に来ました。彼とは、一年前、この土地で、僕の作品を観てくれたお客さんでした。当時小学六年生だった彼は、終演後のロビーの前で、「笑いどころがないからつまらなかった」と、直接、僕に感想を伝えてくれた少年です。パフォーマンスの前夜に商店街で開かれた親睦会に彼が来ていて、僕たちは再会しました。
森ーーと言っても、神社を囲む、林のような、茂みのような場所です。草木のある場所に立ち入ることが少なくなったためか、ついつい大仰な印象を持ってしまいます。神社の境内に入るためには、表側の長い長い階段をのぼるか、急勾配の坂をあがって裏側から入る方法があります。僕たちはその裏側に向かって、歩いていました。その間、彼は自分の持っているカードゲームのことを沢山教えてくれます。その時、何かに引っかかって、声をあげました。僕が。鼻がムズムズしてきて、掻いてみると、薄い糸のようなものが手に残りました。クモの巣でした。
「クモはひかりに弱いんだ」
と、彼が言いました。僕はその言葉を理解できなくて、《なんだか詩的だなあ》と、馬鹿みたいな感想を持ち、また、歩き出しました。神社の反対側に出ると、今度は、坂を下って、表に出る道を行こうと、彼が提案しました。彼が《ほら、みて》と上空を指差し、見上げると、木の枝には、クモの巣がかかっていました。糸は太陽に照らされ、反射し、その姿をくっきり浮かび上がらせています。僕たちがさっきまでいた場所は、高い木が太陽を遮っていて、ひかりが入ってきませんでした。少し、薄暗い場所でした。そういった条件の方が、クモの巣は気づかれることなく、獲物を捕獲できます。僕が気づかずぶつかったようにーーまあ、人間の場合は、巣を壊してしまうからちょっと違うと思うけどーーだから、《ひかりに弱い》。なるほどなあと思いました。
弱い、と言えば、その後、彼がはまっているカードゲームで遊んだ時のことです。ざっくり説明すると、召還獣みたいなキャラクターを召還させてはお互いに闘わせるゲームなのですが、キャラクターには水タイプとか炎タイプとか属性があって、何も知らないのに勝てるわけないよなあーと思っていたのですが、だんだんルールが分かってきて、《あー、わかってきたわ。これ楽しい》ってつぶやいたら、《あ、よかった》って彼が笑顔で僕の目を見ながら言ってきて、《僕、それ超うれしいです》って僕に真顔で伝えてきて、いや、《俺こそ嬉しいよ》って、もちろんそんなこと恥ずかしくて彼には伝えませんでしたが、そんな感じで、彼に一度も勝つことはできませんでしたが、勝つとか負けるとか、関係なく楽しかったです。
話は飛びますが、二年前の春に『ひとがた流し』という作品を上演したことがあります。北村薫さんが書いた小説が原作です。作中では猫の表情や仕草を見て、登場人物が猫の気持ちを想像するような場面がいくつかあります。つまり、猫が登場するわけです。登場させました。本物の猫ではありません。俳優に演じてもらいました。《猫は生涯のうち、たった一度だけ喋る》という話をどこかで耳にした僕は、猫を通して人間関係が変化してゆく、物語の中でも大事なシーンで、猫(役の俳優)に言葉を喋らせました。そのため、基本的に黙ったまま、周りの話を聞く、という方法で立ち回ってもらったのです。
そんな話を、終演後のトークで、北村さんご本人に直接お伝えすることができました。すると、「僕も猫を飼ってるけど、いつでも喋りますよ」と北村さんは仰ったのです。僕は一度も猫や、動物といったものを飼ったことがありません。もしかしたら、日々過ごして行く中で、「ニャア」という猫の鳴き声も、こちら側に伝達される確かな「言葉」として受け止めることができるのかもしれません。自分とは違う、他人の実感に触れられて嬉しかったです。程度にもよりますが、思い込みで生まれるものもあるのだなあとこの時思いました。
今回、枝光で彼と過ごしてみると、カードゲームに限らず、やたら彼が勝負をしかけてくることがわかりました。缶ジュース早飲み対決とか。神社の階段を使ってのグリコとか(超疲れた)。確かに僕も、そういった強烈な《相手》という関係性を作っては、友人たちと関係を深めてきたり作ってきたりしていたなあと、昔を振り返ったり。
《ひかりに弱い》という言葉が、自然の変化に敏感な感じがするからーー目に見えないものを受け止める姿がそこに現れるから、などというちょっとかっこつけたような僕の思い込みが、この言葉を詩的に響かせていたのだなあと、東京に戻ってきて気づきました。彼からしてみれば、クモという《相手》を作っては、ただただ全力で関係していただけに過ぎなかったのに。まあ、それすらも思い込みなのかもしれません。刺激的な一日でした。
日々、歩くことを心掛けています。健康のためです。
近所を散歩してると、歩道と車道を分ける白線に目が止まりました。町中のどこにでもある風景です。道路に引かれた線の色は剥げ落ち、その下のアスファルトがところどころ露になっていました。自動車の往来によるものでしょうか。わけもなく足下を凝視すれば白線と路面の色が反転され、スプレーで吹きかけたような黒の塗料がーー樹皮に生じた地衣植物の模様のごとくーー舗装路の白線に着生しているようにも見えました。
今月の写真をご覧ください。先月頭、『プリズムが砕けて、青』のみんなで遊園地に行った時のものです。稽古場から歩いて数十分の距離だったので、気分転換も兼ねて、稽古の合間に出かけてみました。到着した頃にはすでに営業時間は過ぎていて、閉園されたエントランスは人影がまばらです。僕たち以外ほとんど誰もいませんでした。木々に実った電球があたりに僕たちの影を淡く落としています。僕たちは首を上げイルミネーションを眺めました。クリスマスの到来を予感させる光です。僕はさらに上空高く視線を動かしては、様々な方向に眼球を擦らせては星や雲ーーどれ一つとして同じように輝かず厚みを持つことのない風景たちーーをフレームしました。それは、僕の、僕たちだけのパノラマになりました。
そして遊園地を訪れてから二週間後、僕は『プリズムが砕けて青』の公演中止を決めました。(その二週間後、この先すべての公演も中止にすることにしました)
前回のコラムからずいぶんと時間がたってしまいました。どれだけの人がこれを読んで下さっているかは分かりませんが、お待たせしました。橋本清です。今月もよろしくお願いします。十一月は先の件について扱いたくて急な坂スタジオの方々に待っていてもらいました。さて、本題に入ります。公演中止を発表した後日、めぐりあわせるようにして出会った一冊の本があります。ーー石原慎太郎『完全なる遊戯』(新潮社版)です。その中に収められた『それだけの世界』という短編作品に僕は心打たれることになりました。
※以降、作品の内容に抵触します。あしからず。
*****
『それだけの世界』は、クライマーたちを題材にした物語です。といっても、山を登っていくようなーー上に向かっていく物語ではなく《下降》していく物語です。険しい岩山に挑み、敗れた者たちの物語です。秋晴れの中、主人公とそのガイドが雪渓を下っていくところからその幕は開きます。なじみのない登攀(※)用語に苦労しながら数ページめくっていくと、ある文章にたどり着きました。
「山にいると、町中で生活しているほどに死を思うなどということは不思議とあり得ないのだ。」
おや? と思いました。確かめるように頭から読み返してみると、再びさきほどの文章にぶつかります。
「山にいると、町中で生活しているほどに死を思うなどということは不思議とあり得ないのだ。例えば岩場で行きづまった時にも、車の雑踏した通りを渡り損なった時程の不安な困惑すら感じることはなかった。」
《死》という言葉が頭からここまでに三回出てきていることがわかりました。ーー少ないと思いました。さらにそのどれもが登場と同時に文中で否定されることにも気づきました。先へ進みます。
「がしかし、私が、いや登攀者の総てが死を信じないというのでは決してない。岩登りという、引力を無視した奇体な力学の操作で登るべからざる垂直の壁をさか登る行為に死と危険の有り得ぬ筈は絶対に無いのだ。が登攀者はそれを意識外にしめ出したところからスタートする。それ故、死は突然に、全く突然にやって来、人間をはりついたその岩壁から虚空へ剥ぎとって去るのだ。」
雪崩にのみ込まれた者……落雷にあった者……足を滑らせて墜落した者……。彼ら登攀者たちは、普通の人間以上に数多くの《他人の死》を知っています。しかし実感としてそれを持ち得うることができないのです。自分の身に降りかかる《死》だけは信じることなく、己の勝利、己の生以外は知らないのです。そうした登攀者たちの死生観を交わらせながら、それだけの価値のある世界が描かれていました。そして、岩登りを断念した主人公は近いうちに山へ向うことを決意します。違和感の正体はこれでした。
ーー僕は無意識に《死》を求めていたのです。
自分の現状と照らし合わせていたのでしょう。諦めたものや中断したものの中に一縷の希望を見出すのを恐れていました。僕は何かをはじめることに負目を感じていました。だからこそ、諦めても尚、山を目指していく主人公の姿に戸惑いを覚えてしまったのです。《敗退》した背景に決定的な《絶望》が写り込んでいないことを受け入れられなかったのです。
物語は中盤以降、ある男をめぐって展開していきます。
男はかつて腕利きのガイドでした。ある夏、男が自分の息子を岩場へ連れ出した時のことが語られます。親子で頂上へのルートを直登していると突然、息子が岩壁から転落しました。父親である男の長年の技術が、二人をつなぐザイルがその落下を抑えます。しかし、岩壁に激突したのか息子の顔は血だらけです。名前を呼んでも返事はありません。動かずただロープにぶら下がっています。岩壁にしがみつき体を支えていた父親はそれ以上身動きが取れませんでした。そのままでいれば親子もろとも谷底へと墜落してしまう状況でした。
「君ならその時どうしたと思う?」
主人公がガイドに尋ねます。ガイドは答えました。
「私も、結局同じことをしたでしょう。(中略)あの男のやったことは、あの世界じゃ当たり前なことなんです。(中略)人間て奴は誰も、一度に、二つの世界には住むことは出来やしませんよ」
男は息子の《死》を判断し、ロープを切りました。息子は死にました。いや、すでに死んでいた筈だとガイドは語ります。ザイルが切られる前、まだ生きていたという人もいます。死んでいたとしてもガイドとしては遺体を見捨てるべきではないという意見もありました。ともかく、男は助かりました。
*****
読み終えてから、真夜中、久しぶりの散歩に出かけました。
劇団を解散すること……演劇を辞めること……この先のことについて思いめぐらしていました。ふと、歩道と車道を分ける白線に目が止まります。自動車の往来によるものでしょうか。舗装路に引かれた白線の色が消えかかっていました。町中のどこにでもある風景です。粉をまぶしたような大小様々な黒点が、街路灯に照らされ鮮やかに浮かび上がる白線に広がっていました。僕が歩く時は大抵こんな感じて下ばかり見ています。
ーー少し遠くまで行ってみよう。
例えば僕の家からあの遊園地までは、ここから一時間もかかりません。例えばあの劇場までは……日が昇るまでに到着する自信はありませんでした。もうこのままどこにも行けない気がしてきました。二度と誰にも会えなくなるんじゃないかと不安になってきました。そんな気持ちを紛らわすため、僕は、さきほど読み終えた物語をーーはじめて《死》が現れた箇所を反芻します。
「登攀に於ける唯一のルールは、死んではならぬということ、死を止め得ぬ場合に於いてもそれを最小限に食い止めるということである筈だ。その鉄則、その絶対の真理の前には、ある種の英雄的行為も愚挙でしかない」
ーー僕は、戸惑っていたんじゃない。羨ましかったんだ。
このまま色々なものを終わらせていくことが責任だと思ってました。周りのことを思えばーーと言ってしまうと、もうすでに数多くの人々を巻き込んでいる状況ですがーー滅び続けることを考えていました。
ーー生きていくための決断なんだ。自分のための判断だったんだ。生きるための、にせものの《死》だったんだ。だのにいつのまにか、ほんものの《死》へと近づいてきている。
吐く息がだんだんと白くなります。肺から喉を伝わり吐き出される真白の靄は、一瞬上空に昇ったかと思いきや、すぐさま霧散しました。がしかし、空気を吸い込んでいる限りにあっては、呼気は永遠に生み出されていきます。
ーーどんな形になっても、続けていこう。
僕は息をつかまえるようにして空を見上げました。そこには空には星が瞬き、雲がたなびいています。切れ目からは月が顔を出しています。きっと美しいのでしょう。あるいは不気味なのでしょう。神秘的なのかもしれません。それらはただそこで輝き、そこにあるだけなのです。もう一度、またはいつの日か幻想することが許されるならーーいや、今だってすでにそれははじまっている。天を仰ぎ、呼吸を繰り返す自分の姿が、蒸気機関車のそれと重なって、なんだかおかしく思えてきている。
ーーどこへ向かっていくんだろう。
木枯らしが僕の両脇をかすめ、高い声をあげながら遠くの方へと飛んでいきます。それが真冬の嚆矢となりました。
(つづく)
真冬は近所の図書館にもやってきました。
入口付近の特設コーナーには、季節に応じて色とりどりの本が集められます。今年の夏は《旅》でした。冠毛をまとった種子が風で吹き飛ばされる頃。旅行雑誌や冒険記、山林を中心とした写真集などが棚いっぱいに並びました。正面を向いて立つ新緑の表紙が目を惹きます。描かれた表紙の峰々は隣同士で結びつき、小さな尾根を作り出していました。足下には児童向けに絵本が置かれていて、クレヨンの自動車が山腹の曲がりくねった道を進みます。先日。久しぶりに来てみると、その山肌はすっかり白く覆われていました。ーー《雪》の特集です。棚高く繋がれた稜線も霞んでいるように見えました。ふもとの雪原を、水彩のオオカミたちが奔走します。雑誌コーナーの『ダ・ヴィンチ』(二〇一四年一月号)では、今年一年間を振り返って小説やコミックなどの年間ランキングが組まれていました。年末を感じさせる風物詩です。ーー《忘れていた沢山のことを思い出しました。》という文章ではじまるのは、『ダ・ヴィンチ』で連載中の穂村弘『短歌をください』のページです。月毎に決められたお題と自由詠の二つを読者から募集して、投稿作品を穂村さんが紹介していくという企画です。今月は《学校》でした。ページの終わりには来月号の《お題》についての説明が載っています。《殺人と二人乗りとインサイダー取引じゃ、ぜんぜん違う。国によっても基準が違う。法律とは関係なく、自分にとっての「犯罪」ってものもありそう。》
ーー「犯罪」がテーマでした。
『真夜中すぎ』(いのちのことば社編集部出版)という本があります。数年前に横浜の古書店で購入したものです。ポーロ・ブレイナード・スミス牧師による説教がまとめられています。劇団の活動を休止させたこともあって、最近になってようやく手をつけてみました。と言っても、特に何かを信仰しているわけではありません。がしかし、例えば《夜中》という言葉が、聖書全巻で十四回しか出てこないこと。また、イエス・キリストの《書く》という行為が二度しか現れないなどなど……読み物として非常に興味深く楽しむことができました。後者のエピソードは『聖書が名付ける罪』の章に収められ、そこでは文字通り大小さまざまな「罪」が扱われていました。孫引きで恐縮ですが、冒頭部分のヨハネの福音書の第八章の数節を抜き出して、今月のコラムをはじめます。
※特定の宗教への勧誘を促すものではありません。
*****
すると、律法学者たちやパリサイ人たちが、姦淫をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った。「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか?」彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためだった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして彼らに言われた。「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい。」そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。これを聞くと、彼らは年寄りから始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。そこでイエスは身を起こして女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。女は言った。「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように。」
聖書にはほとんどどの書にも「罪」に名前がつけられているそうです。スミス氏によればそれは以下に分類されます。
「神によって裁かれる罪(以下”審判”)」
「神によって裁かれ、人間社会から排斥される罪(以下”排斥”)」
「神によって裁かれ、人間社会から排斥され、その上刑務所に入れられる罪(以下”入獄”)」
の三つです。
《イエスが二度地面に字を書かれ、その間に何か言っておられることに、気がつくでしょう。》スミス氏は語りかけます。聖書の中で主が何かを書いたのはこの時だけでした。では一体、イエスは何を書いたのでしょうか。ーー僕は関係のないものだと思いました。例えば意味のない落書きのようなーーある状況において不相応なものを想像しました。宗教的な人々の問いに対して、素っ気ない振る舞いを見せることで、彼らに内省を促すようなーーそうした時間を作っているように感じられたのです。連れてこられた女性を救うべく、群衆を立ち去らせるためにイエスがとった手段。が、僕のこじつけ合わせた料簡でした。つまり、裁きは彼女にではなく、彼らの方にあると思ったのです。これに関しては諸説ありますがーースミス氏は真逆のことを説きました。まず、イエスが地面に書いたものは女性や周囲の人々に関連したものだそうです。そしてイエスは、彼女の「罪」を決して軽んじることはなかったのです。
地面に書かれたものはーー「姦淫」という文字でした。
スミス氏は、主と人々の動きを読み解いていきます。ーーはじめイエスは「姦淫」という文字を書きました。これは”入獄”にあたる「罪」です。すると一群はその輪を縮めました。女性が「罪」に定められるのを見て、自分たちの行為が主に同意されたことに満足したからです。再びイエスは「不品行」「盗み」「飲酒」などの”入獄”の「罪」を書いていきます。その間、酒飲みや人垣にいた数人がこの場を去っていきました。さらに「偽り」「神への冒涜」「偶像崇拝」といった”排斥”の言葉を地面に書き連ねた後、イエスは言いました。
《あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい。》
大半の者たちは、石を拾って女に投げようとしました。その時です。二度目の《書く》という行為が現れました。今度は僕にも予想がつきました。ラストの場面で女性とイエスを二人きりにするためには、群衆をかきけす必要があります。ーー想像力は、風船を膨らませるようにして、小さなものをだんだんと大きしていく作業に似ています。割れないように気をつけながら、自分の理想とする形に近づけていくわけです。大きければその逆も然り、空気を抜いてあげます。要するに、「殺人」で動かなかったとしても、より身近な「罪」を代わりとして用意すればいいのです。ーー答えは『短歌をください』に隠されていました。《殺人と二人乗りとインサイダー取引じゃ、ぜんぜん違う。国によっても基準が違う。法律とは関係なく、自分にとっての「犯罪」ってものもありそう。》です。イエスが二度目に地面に書いたものは「むさぼり」という名の「罪」でした。
ーー”審判”です。
《私はこのメッセージを、入獄に価する罪についてはなんらの関係も持たない人々に向って、語っているものと思います。(中略)もし神の御霊が、このような人々の心に到達しようと思われるなら、彼らの生活水準において、罪の自覚をおこされなければなりません。(中略)いつの日にか神によって刑罰の宣告を受けると言っている罪について、語ろうと思っているのです。》
スミス氏は説きました。ーー聖書では、「殺人」と「嫉妬」は区別されず、小さな「罪」も社会への大きな「罪」と同列に置かれていました。
*****
穂村さんの文章は『群像』(二〇一四年一月号)にも載っていました。雑誌の表を飾るタイトルと添えられた号数の色合いがめかしこんだ晴れ着のようでした。連載中の『現代短歌ノート』ではさまざまな時代に生きた(きている)歌人たちの「犯罪の歌」が取り上げられています。偶然にしてはあまりにも出来過ぎていました。来る年に思いを至らせながら、せかせかと「罪」の大掃除をする姿が頭に浮かんできて、それは微笑ましくもあり、また、恐ろしくもありました。
僕にとっての「罪」といえば「公演中止」です。
自分は一体どれほどのことを犯したのか。誰をどんな風に痛みつけているのか。考えるほどに目の前のあらゆるものが「罪」に見えてきました。ーーこうして話題にすることもまた、一種の「罪」なのかもしれません。ハッキリと自覚できる「罪」には、女性を取り囲んでいた集団のように、いくつもの違った「罪」が存在しているのです。ーー先月から二ヶ月にわたって「公演中止」について書いてきましたが、この行為はきっと、己が自分自身に対しておこなった《啓示》なのでしょう。気疎くも禊のごとく、そうしなければ何かが変わることは一向にないのだからーー。と思いつつ、暮れ行きなずむ大晦日の、静謐とした時間において僕が抱きはじめたのはーー「焦慮」でした。
種や芯にも栄養があるように、真っ赤な「果実」の内側で新たな「罪」がすくすくと育ちました。
相手から受ける「罪」もあります。
先月のコラムを執筆していると、あっ、とキーボードを打つ手が止まり唐突に、お気に入りの傘を盗まれた《事件》が思い出されました。
小学生の頃。雨の日曜日。母と一緒に近所のデパートに出かけた日のことです。買い物を済ませて帰ろうとすると、入店時、傘立てに差し込んだ《けろっぴ》の傘がどこにも見当たらないことに気がつきました。
——と、ここで記憶は終わります。
ご存知の方も多いと思いますが、《けろっぴ》とは、サンリオがデザインしたカエルの男の子のキャラクターです。小学生だった頃、サンリオのキャラクターが活躍する子ども向け番組がテレビで放送されていて、そこで《彼》を知りました。
《事件》といっても、探偵も登場しなければ犯人も見つかりません。けれど被害者はいました。もちろん僕です。
両手でくるくる《彼》を回しながら、雨の中、家からデパートまでの通い慣れた道を歩く自分の姿が、その《彼》がいなくなってショックを受けたことが思い出されました。
——と、ここまで振り返ってみて、いや、違うな、となりました。
記憶は《傘がなくなった》ところまでしかありません。そこで記憶が途切れるということは、それほど盗まれたことが衝撃的だった——《彼》をそれだけ気に入っていた——という具合で、逆算によって生まれた感情なのかもしれません。
雨空を背景に意気揚々と歩く自分の姿も、これからデパートで欲しいものを買ってもらえるからそうしていた可能性だってあって、必ずしも傘とは関係のないことかもしれません。——あくまでその前後は僕の想像——もっと言えば、捏造されたものでした。
実際のところ、それらの記憶は何一つ、僕の頭の中に残ってはいませんでした。
うろ覚えの雨の一場面が「罪」という言葉と結びつき、記憶そのものよりも、その前後の不確かな映像を、ノイズ混じりにつぎつぎと浮かび上がらせました。
*
中学に上がると、新しくお気に入りができました。
《できた》といっても、愛用するようになったのはしばらく先の話ですが、《できあがった》のはこの頃です。現在でもハッキリと記憶に、確かなものとして《形》になっています。
技術の時間に卓上型ランプを作りました。
——まず、折紙くらいの大きさにまで引きのばした枡型の木材を《土台》にします。底の部分と二つの側面に、合計して三つ、小さな穴をあけました。
《枡》をひっくり返し、その上面の対角付近に一つずつ、上から見たら巣穴に向かう蟻のような形になるように、親指ほどの長さの木棒を寝かせて木面に接着させます。
その二本の棒を左右から挟む形で、五センチ角の正方形の木板を二枚、《土台》に合わせて直立させれば、高さを出すための《柱》となります。
二枚の板の中央部分には、あらかじめ専用の機械を使って、一辺二センチほどの四角い小窓を開けておきました。持ち運びする時のつかみの役割を担うものです。
学習教材の一揃いのものを組んでいったので、デザインは教室中で統一されましたが、だからこそ《土台》や《柱》の出来次第で、それぞれのオリジナルが生まれていったように思います。
続いて、ビニールコードの両先端をカッターで剥ぎ、銅線の束を作り、その片側をソケットに取り付けたものを《柱》の頂上に固定します。
反対側のコードの先は《柱》の小窓から見えないように、長さや位置を調整しながら、板と板の間を通らせ、はじめにあけた《土台》の底の穴に落とし入れます。
側面にあけた小穴の一つには、同じように先端部分を加工したコードを横から差し込み、もう一方の先に電源プラグ、三十センチ程離れた箇所にスイッチの部品を接合させました。
——残りは灯すための作業です。
もう一つの側面の穴に、アルミ製の細長い棒を差し込み、三方向の穴から挿入した金属たちと、《プリント基板》と呼ばれる電子回路を構成するための緑の板とを、《土台》の奈落の中で繋ぎ合わせます。
そして、さかさまにした《枡》の口を塞ぐように、滑り止めをつけたコルクボードを使って《土台》の底に蓋をすればほぼ完成です。
最後に、電球をソケットに取り付け、ランプシェードをかぶせます。
スイッチを入れると、半円弧状の乳白色のかさが、柔らかい光をあたりに拡げてゆきました。
*
さて、《基板》には電子部品を半田付けする必要がありました。その溶接の最中、《これは本当に熱いのだろうか?》という疑問を持ちました。
かつて、理科の授業でアルコールランプを使った実験の時にもそう思ったことがあって——これは実際に触って火傷しましたが——《熱い》ことは知りつつも、怪我してはじめてその恐ろしさが分かるというか、例えば、僕にとってストーブの《熱さ》は、ストーブだけの《熱》であって、コタツでもライターでも、他のものへと置き換えるのが苦手でした。
半田ごてもそうでした。じゅわじゅわとあぶくを出して溶けゆく金属を見ても、その《熱さ》と向き合うことができなかったのです。
そうして怪我を繰り返し、または誰かに注意を受けながら、自分の頭の中の《熱さ》という情報と、実感とを少しずつ繋ぎ合わせていきました。
*
けれど、《熱さ》そのものを知らなかったとしたらどうでしょうか。
《熱》を忘れた——記憶喪失の人と出会いました。
2月の橋本清は、番外編をお届けします。
現在、橋本清さんは急な坂スタジオの和室をご自身の【書斎】として使用しています。
急な坂に通い、1カ月間かけて台本の執筆を行っています。
創作のために集めた資料や、インタビューを元に、書いては直し、書いては直しの繰り返しが、和室で密やかに進んでいるのです。
せっかくの機会なので、没になった原稿・参考資料・完成原稿を、急な坂の共有スペースにて、公開中です。
【橋本くんのロッカー】には日々、原稿が増えていきます。
急な坂にお越しの際は、ぜひ、ロッカーの中を覗いてみてください。
上演に至る前の創作の種をご覧いただけます!
その人はフェスティバル会場入り口近くに広げられた露店の中にいました。
日曜日だからか家族連れも多く無料の炊き出しなどもあって、開演前、多くの人で賑わっていました。大好きな歌手のライブがあって――と、去年の秋晴の十月。友人につれられて会場を訪れた僕は、そこで珈琲を売っている彼と出会いました。仮に《斉藤さん》として――といっても、本当の名前は誰もわかりません。
《斉藤さん》は記憶喪失でした。
――四年前の春先、都内で保護された《斉藤さん》はとある施設に入りました。はじめの頃は上手く喋れず、まるで赤ん坊のような感じだったそうです。たべものの食べ方やお風呂の入り方など、いろいろな行動を施設で一から学び、さらには「楽しい」という感情や理屈、――たとえば「冗談」などといった表には出ない言葉でのやり取り、隠された意味を互いで汲み取りながらコミュニケーションしていくことも、覚えていったそうです。
一時的に施設で暮らしていた《斉藤さん》は、身分を証明するものがなく、また、彼のことを知る人物が現れなかったからでしょう。警察や役所、さまざまな場所をめぐった後、病院に入院することになりました。そして検査の結果、記憶喪失だと診断されました。
それから記憶が戻らないまま《斉藤さん》は退院して、ある団体と出会って以降、定期的にそこで行われる事業に関わっていくようになるのですが、――話をもとに戻すと、その活動の一環として《斉藤さん》が、僕が友人と一緒に訪れたフェスティバルで来場者に向けて珈琲を販売していたのです。
友人もかつてボランティアスタッフとして活動に携わっていたことがあり、――《斉藤さん》がこの場所にいる経緯を後から詳しく知ることができたのも友人のおかげです。――火のついた煙草が熱いってことも忘れて、火傷するくらいの記憶喪失の知り合いがいるんだよ。と、僕は事前にそれだけを聞いていました。
久しぶりに《斉藤さん》と会った友人が、――記憶はどうですか。と彼に尋ねてみると、
「変わらずだよ。けど、前に進んでいかなきゃね。」
キリッした表情で答える《斉藤さん》。
友人が笑いながら、――どうして今日はそんなにキメてるんですか。と続ければ、
「や、実はちょっと前から歯が痛くてさ!」
と、今度はしかめ面。周りがどっと沸きました。
僕が《斉藤さん》とはじめて会ったのは去年のことですが、それからは何度も、先月横浜で戯曲を執筆している最中(※二月のコラム参照。公演中止にした『プリズムが砕けて、青』が題材。)はとくに、彼のことが頭をよぎりました。――後日、友人から《斉藤さん》について詳しく知ることができました。
どうやら何かを覚えるのは得意で、――というか振り返るものがほとんどないからつぎつぎに色んなことを覚えていくのかもしれません。――記憶力はいいほうだと言われているそうです。普通の人のように働きたい、いろんなことを覚えたい、という欲求から今の活動に関わりはじめ、残りの時間を使って料理やパソコンを習ったり、図書館に通ったりする日々を過ごしているとのことでした。
記憶を思い出すこともあるそうですが、その可能性は低く、《斉藤さん》が一番に望むことは喪失後に新しく覚えた(覚え直した)記憶を持ったまま、失われた過去を取り戻すことだそうです。――いつも自省ばかりしていた自分にとって、傲慢かもしれませんが、先の時間に視線を延ばしている彼の姿が魅力的に映りました。
露店の近くには、イスを二つ並べただけの小さな喫茶スペースが用意されていました。その脇に、竹林。すぐ側には公道があって、日曜日の往来が流れてくるのが街に開かれた施設の出入り口から見えます。色とりどりの風船が来場者に配られ、糸をぎゅっと握った子供たちが会場の周りを走りながら、秋の空におはじきを散蒔きます。
開演まで時間があったので、僕は淹れたての珈琲を片手に、おまけでもらったクッキーを食べながらイスに座ってぼーっとしていました。――友人は他にも知り合いがいるらしく、《斉藤さん》たちが働いているテント張りの出店の裏で談笑してました。店の中にはコーヒー豆や、電動ミル、魔法瓶などが長机に置かれています。珈琲は自家焙煎のもので、気持ちの良い薫りがあたりに漂っていました。
と、一人の小学生くらいの女の子が《斉藤さん》のいる店と、僕が休んでいた喫茶スペースのイスの間――大体二メートルぐらいです。――に向かって走ってきました。手には黄色い風船。僕は伸ばしていた足を引っ込ませ、そのままの速さで奥まで突き進もうとする女の子を目で追います。その時、
「危ないよ。」
という《斉藤さん》の声が聞こえました。女の子が走っていた道の、店側の方に熱を帯びた機械や入れ物があったためでしょう。呼びかけられた彼女は一瞬立ち止まり、《斉藤さん》を一瞥した後、何も言わないまま去っていきました。
この時、《斉藤さん》がどこかに置いてきた熱の記憶が再び燃え上がったような気がしました。彼のこれまでの苦労や喜び(という言葉が脳内に溢れましたが、あまり適切ではないでしょう。そう思いました。)さまざまなことを忖度せざるを得ませんでした。だから、というわけではないのかもしれませんが、僕は自分のことについて考えはじめ、それで思い出した記憶が一つありました。
理科の授業でアルコールランプに触れた記憶、多分はじめての火傷の記憶です。と思ったところで、――実はもっと前にも火傷をしているのかもしれない、という思いに駆られました。ガラスの蓋をかぶせて消えた火のように、たとえ自分の中から記憶がなくなったとしても、その容器にまとう余熱は、ぬくもりはしばらく先でも想像できるのかもしれません。
――小学校に上がる前、いつの日か母親と一緒に大晦日のお参りに出かけたことがありました。神社の境内には篝火があって、自分はここではじめて炎を見たんだと思います。爆ぜる木片に興奮しました。たぶんそうなんだと思います。ギリギリまで近づけば危険です。けれど、僕は小さい手を伸ばそうとして、その時、母親が僕に《危ないよ。》と声をかけてくれたんだと思います。火傷の記憶を持たせてくれなかった、――知らなくてもいいことを教えてくれた人が、記憶には残っていませんが確かにいたのでしょう。
*
もちろん、知っておくべきことがあった方がいい時もあります。
《斉藤さん》が虫歯を治療しに歯医者に行った時のことです。これまた後から友人に聞いた話ですが、《斉藤さん》がうがいをお願いされた時、上手くできずにごぼごぼと口の中で水が溢れ出し、施術台の上で溺れてしまったそうです。
僕の頭に浮かんだのは、――イテテテテと頬をおさえる、彼の破顔でした。
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去年の夏からコラムの連載がはじまり、九ヶ月が経ちました。二月の番外編と今回のものを合わせると全部で《9個》のコラムがありますが、そのどれもが自分の過去を顧みているのものでした。《将来の夢は?》からはじまって、色んな《球》――《クエスチョン》のボールを投げては受け取り、あるいは後逸させながら自問自答を繰り返し、自分の気持ちを文章にしてきました。
二十五年という自分の短くも長い人生を振り子のように往復するだけでなく、――《斉藤さん》のように振り返る過去がなく前へ前へと進んでいく人に出会ったのも大きいですが――これからは違った時間や空間との付き合いができればいいなと、今は思っています。
読んで下さっていた方々、ありがとうございました。