Aokidのコラム「Drawing & Walking」第6回

ダンスだけではなく、絵や美術など様々なアプローチで踊り続けてきたAokidさんは、どんな言葉を紡いでくださるのでしょうか。
このコラムでは、ふと思い浮かんだことや、稽古場や様々な場所ですれ違った人・ことについて綴っていただきます。
Aokidさんの独特なリズムで綴られる文章をぜひお楽しみください!

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Aokidのコラム「Drawing & Walking」第6回

周りを走れているか?周回出来ているか?

急な坂でコラムが始まってもう6回目。
思ったよりも書くスピードが遅い。最近はなんだか言葉との付き合い方が変化している。僕の言葉は、人に伝わりやすいとか精密に積み上がっていくというタイプではなくとも、何かいつも自分なりの文体で言葉が身体の中を結構満たしていて、それが外に出ていくタイプだったと思うのだけど、どこか迷子の感じが最近ほんのりあって、脱出をして再びその身体を取り戻そうとしている、、、

舞台芸術にまつわることをこのコラムの機会をもらって拡張しよう、なんて思っていたのに。意外に周辺を書くのにいっぱいいっぱいだったり、色々観劇には行っているのだけど別のことを書いてしまっている。
むしろ今は、どこか別のことが大事な気もしているということなのかもしれない。
なぜかオルタナティブであることが難しいと感じる。

11月の海へ行ってきた。
町田にある実家から、早い時間帯、午前中に出発したかったのだけどなんだかんだ11時過ぎの出発になった。
この趣味?というのは、ここ10年くらいずっと気まぐれに続いていて事あるごとに行う。
自分にとってはランニングというのは一本の線を引くような作業で、紙に線をひくような作業。だからこの連載のタイトルもWalkingとDrawingという2つの線をかけてつけている。
その日はとても天気が良くて11月というのに日焼けをしてしまった。この秋は少し変で、1日外にいる日に限って天気が良くて、それで日焼けしてしまう事態が続いている。
普段からそんなに長距離を走っているわけではないので、15kmくらいではまだ湘南台でいつもここで藤沢と湘南台に来たことを勘違いしてしまう。そこから5kmいってやっと藤沢になる。
ここからの5kmで江ノ島となるのだがここがいつも疲れていて遠く感じる。
この日はいつもと違うコースに最後迷い込む形で、観光客に溢れた通りを縫うようにしてラストスパートをかけていき、最終的に海に着いた。
もう最後はなすがままという感じで別の道の方が良かったかなとか思うものの引き返すのも大変で。
海が見えそうなところで一回、車道の下を通る必要がありトンネルを降りていくようにして地下へ潜って階段を上がると一面砂浜と海だ。その手前、まず階段から上を見上げるところで空が入ってくる。空のあとに砂浜と海、そして足は誘われるがままに疲れ切った体を伴ってザクザクと砂浜へ。階段から上がった時の空というのは”あり続ける空”というより”見つけた空”みたいに体験される。こういう効果を舞台とかでは代替させるようにしてシーンが出来るよね。舞台で見せられることも好きだけど、こうして自分で発見することもとても好きだ。
しばらく海での時間を過ごして何かお土産を持ち帰ろうと映像を撮影した。手に入ったりはしないのだけど、踊ったり、何か手を動かすようにiPhoneを使って描き&動いていく。これが私の今日の海だ、と言わんばかり。でもこれをとってよし、句読点を置いた、という気になって帰ろうと思った。

ストリート
2019年から続けているストリートリバー&ビールという活動があって、渋谷の陸橋の上で1時間踊ってその後にビールを路上で飲むというイベント。元々はバックパックを色んな国でして特にヨーロッパの(特にベルリンの)インスピレーションで「若者には安いビールと未来について話す」ということこそが何より重要なのでは?というコンセプトをたてて日本で活動をすべきだと思いついて始めた。
コロナの前は結構よく人が来ていて、いつも10人以上とか。1人でもやるんだけど結構人が集う場所として機能していた。コロナになってから頃合いを見てやった時も逆によりどころのようにして遊びに来てくれる人がいた。
けど、最近は来る人が減ってきている印象。来ても数人。なんだかみんな忙しそうだ。
SNSでも見かけるのは告知やイベントについての感想などが多く、どこかかしこで小さなイベントが起きたり忙しない。そういう中で同じような時間帯に発生しているこのストリートは候補にあまり上がらないのかもしれない。
でも、少ない人数でちょっと踊ってビール飲んだりするのは、それはそれですごく平穏な日常な感じもする。でも実際は街で踊るというのは切実なところもある。一瞬だけ、街の中でそれぞれの目的をもって通りゆく人が一瞬身体が同期したとか、目があったとか、踊りを正面切って行われたという感覚がどんな風にして残ったり、あるいは残らないのかもしれないけど。
明らかに起きたことや見たことはSNSなどに書かれるかもしれないけど、意識にも残らないようなこと、あるいは言葉にもならないようなことが日々それぞれの身に起きていて、そのことが何かしらの影響を及ぼすんじゃないかとか思っていて。だから絵とかの感想でよく「見たもののわからなかった」とか言われるけど、実際はその絵の中の筆の一つ一つのパフォーマンスは鑑賞者の身体の中にざらざらとひっかき跡をつけるように眺める際に物理的な影響を及ぼしているんじゃないか、それと同様にダンスも、手を自分に向かって遠くから振られる事や隣にどんな人が座ったか感じられるように、思ったよりも体は他者を日々、感じながら生きていますよね?
主要駅でよく女性に向かってからだをぶつける男性のように”感じてはいるはずなのに感じていないふり、見えているのに見えていないふり”に対して、見えていますよ!とあからさまに踊りを向けることである種、それは暴力性もあるかもしれないけど体はぶつかったりしないでずっと空を切り続ける素振りをやるような感じで、だから変な人がこっちに向かって素振りをしてきたと思われるくらいなのかもしれない。
だけどこの人に対する素振り(すぶり)であるとか、あるいはそこに流した音楽にノるだとか、車の音に反応するだとか、通りゆく人の動きにインスパイアされた動きを起点に振付を展開するだとか、一緒にその場に集まった人との掛け合いやフォーメーションの変形だとかを1時間やるということが一種街のインフラみたいに、道路の交通整備の人ver.(遊びつき)みたいに機能するイメージでやっているところがある。
年末はお世話になったその陸橋を掃除してビールを飲むイベントを勝手に開催しようと思っている。SNSでチェックしてぜひこのヘンテコな活動にご参加ください。


いつも踊っている渋谷のストリート

観劇
黒田育世さんと近藤良平さんの『私の恋人』という作品を観た。
批評家の桜井圭介さんとSTスポットの萩谷早枝子さんの感想をSNSで別に見て、それで気になるものがそこに現れているかも、、と思って。
今年は比較的“踊る”に特化した作品やダンサーを見る機会が増えてる気がする。
そういう流れとしてやはりこの2人を見るという流れも大事な気がした。
色んなことを考えた。良かったといえば良かったかもしれないし。そうじゃないと言えばそうじゃないかもしれない。
学生の頃、よくBATIKの公演を観に行った。コンテンポラリーダンスとして発表されるダンスの中である特化した部分を担うカンパニーとしてそれを欲するように観に行っていた。
一方でもう少し遡ってよく20年くらい前はコンテンポラリーダンスが盛んだったと言われる。
最初は羨ましいとかよく考えもせずに思っていたのだけど、考えてみればきっと20年前であったら自分は魅了されていたかはわからないとも思った。
自分はダンスの興味だけでダンスを続けられるような人でもなかったので、たとえば今の山崎広太さんのような都市でのアクションや都市そのものや生活だとかそれらを含めて考えていくような取り組みなどがなければ、ここじゃないと思ってしまっていたと思う。それか1人でもやっていたか。いや、魅了されていたにせよ、やはり都市の興味みたいな方にどうしたって進んでいたのではないか。
ダンスがダンサーにだけ宿るのかとか、ダンスはダンサーがいなくなっても色んな形で偏在しうるとか、考える。
幼稚園児に向かって授業をしていると潜在的にアナーキーな部分が溢れ出ていて手に負えないことがよく起こる。でもこれもダンスの話で、何かダンスは同じ振付をして型にハマったと思ったらそこからズレていったり、最初から嫌でそこから逃げ出したり。身体が勝手にだったり、身体と自分の中に溢れる言葉であったり。身体だけの話をしようと思ったら、自分の中に溢れる言葉の話になってしまった、、、そのように一側面からは語れなくて。
舞台の上で目や耳で確認できることは限られていたり逆に見落としてしまうことも多いだろうけど、一方でそういった子供のアナーキーさが示してくれるように日常や規則からはみ出てしまう身体だとか、あるいは規則に沿っていくような傾向だとか、独立と併走を繰り返す繰り広げる身体をもう少し追いかけることで何か見てみたい、付き合っで話を聞いてみたい、みたいな感じで踊ってみたい。言葉に負けないアクションできるかな、、、

海やストリート、観劇かと思ったら今度は現代音楽!
友人のヴィブラフォン奏者の谷口かんなさんに招いていただき東京フィルも参加する現代音楽のコンサートに足を運んだ。
これくらい自分から離れている方が想像力が進むというか。見知ったエレキギターなどでの演奏ではなく、オペラシティのコンサートホールでたくさんのクラシックの楽器によって演奏される曲は、普通のクラシックとは違くて、たとえるなら映画音楽などで用いられるような効果的な音の演奏が一つの曲に向かって構成されるというより並列に並べられる構成で。
その一つ一つが大きなクラシックみたいなわかりやすい型を提示していないのは聞いていてすぐわかったので、観客はその一つずつの演奏されるパートをそのたびごとに注視するように聞く事が要請されると思った。だから結構、観客を見渡すと注意散漫な態度の人が見受けられたけど僕は何かを注視するように見ていくと疲れたけど非常に楽しめた。
また演奏者の一部は自身が演奏するパート以外は素知らぬ顔といった人もいたり、コンサートホールの設計もあり、音の出どころと行方をたえず正体を追うように会場を目で泳ぐことも非常にパフォーマティブにさせられて楽しかった。
ゴーストみたいだった。

別々の場所を訪れたりアクションを重ねているのだけど、気をつけていなかったら見失いそうになっていたと気づいた気がする。
それらにまた行くだけでは不十分で、考えていることや参照項にも手を出していく事で接着剤みたいにくっついて関係して成立していくんだった気がする。
ストリートをするということは路上ミュージシャンや都市のインフラとも繋がればアジア各地で起きているデモの状況とも切り離せない。そして日本の状況。ただそれを”リベラルだ!”みたいに容易に構えるのも違くて、その場での人とのやりとりや出来るだけ状況の文脈も読み取りながら継続すること。
12月4、5日はいよいよソロ公演を久しぶりにやります。
せひ体験しに来てください。

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Aokidプロフィール


撮影:石原新一郎

東京生まれ。ブレイクダンスをルーツに持ち東京造形大学映画専攻入学後、舞台芸術やヴィジュアルアートそれぞれの領域での活動を展開。ダンス、ドローイング、映像、パフォーマンス、イベントといった様々な方法を用いて都市におけるプラットフォーム構築やアクションとしての作品やアクティビズムを実践する。近年の作品に『地球自由!』(2019/STスポット)、『どうぶつえんシリーズ』(2016~/代々木公園など)、『ストリートリバー&ビール』(2019~/渋谷)など。たくみちゃん、篠田千明、Chim↑Pom、額田大志、小暮香帆といった様々な作家との共作やWWFES(2017~)のメンバーとしての活動も。